津田沼教会 牧師のメッセージ
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「み言葉に聞く時と仕える時と」(ルカ10:38-42)
ルカ福音書10:38-42、2013・07・28、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)、創世記18:1-14、コロサイの信徒への手紙1:21-29

ルカによる福音書10:38-42
 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


説教「み言葉に聞く時と、仕える時と」(ルカ10:38-42)

 先だって、ルカ9章の51節以下に入り、いよいよ、主イエスは、天に上げられるのが近づいたことを悟り、顔をエルサレムに向けて固めるという分岐点に入りました。今日の記事は、そのエルサレムに近いベタニアで起こった出来事でありましょうが、ルカは、主イエスの一行のエルサレムに向かう途上での出来事として、正確な日時や場所には関心を持っていません。
 主イエスに従い、しかもそのエルサレムでの十字架に向かっての旅立ちの頃に、この出来事を移しています。
恐らく、姉であったであろうマルタが、主イエスの一行を家に迎え入れ、食事のもてなし、給仕に忙しく振舞っていたのでありますが、妹のマリアは、主イエスの足もとに座って主イエスのみ言葉に耳を傾けていたのであります。さすがのマルタも耐えきれなくなって、主よ、私の姉妹にも、私を助けるように言ってやってください、と主イエスに要求するのであります。主イエスは、マルタよ、マルタよ、と優しく、しかし、叱責なさるのであります。あなたは、多くのディアコニア、奉仕、―ここでは、給仕という意味合いであったと思われますが、―に、心を乱し、思い煩っている。しかし、必要なことは一つである。マリアは、その良い部分を選んだ。それは、彼女から取り去られはしないであろうと、明言されたのであります。
 私は牧師になって、20年になりますが、マルタのように、日常の業務で思い煩い、自己を見失いそうになることがしばしばあります。けれども、マリアのように、主のみ言葉に耳を傾け、説教の準備をする時が毎週、訪れます。それは、慌ただしい中にあっても、祝福されたことだと思います。
 毎週の「聖書を学び祈る会」や「英語で聖書を読む会」も、み言葉に聞く時であります。
マルタと同じように、いろいろの雑事も、この世に生きている以上、こなさないわけには、いきません。
 しかし、この世に、イエスさまによって押し出され、ディアコニアをすることと共に、否、それ以上に、み言葉に聞く時が、主イエスは、優先されなければならないと言われます。私たちは、いつかは、地上の生涯を終えねばなりません。そういうときに、立たされたら、み言葉に聞くことが、必要な唯一のことになるのではないでしょうか。
 私の訪問を、事のほか、喜ばれ、老齢の中で介護されながら、87歳くらいで召された、目が見えなくなっていた先達、兄弟のことを思い出します。テレビの政治の動きや、世の中のことには、もうそんなに関心がないと言っておられました。そして、信仰を最後の最後まで拠り所として、遺言されていて、教会に、遺体で、お別れに寄り、私がお祈りをして、セレモニーホールで質素な葬儀を行いました。
 私たちも、最期は、み言葉を聞く時として、主のみ言葉を第1として、みもとに、召されていきたいものであります。そして、礼拝に集いながら、週日は、思い煩っても、また、日曜日に、あるいは、聖書の学びや祈り会に励まされて、信仰生活をまっとうしていきたい者であります。アーメン。












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2013/07/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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