津田沼教会 牧師のメッセージ
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証言「日本人に対しては日本人のように」(Ⅰコリント9:16-23)上村敏文、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校准教授
コリントの信徒への手紙一9:16-23、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)、上村敏文先生特別礼拝

コリントの信徒への手紙一9:16-23
 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。


証言「日本人に対しては日本人のように」(Ⅰコリント9:16-23)上村敏文准教授
  (ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校 准教授)

 おはようございます。この礼拝堂はすごく響きがいいですね。津田沼には初めてまいりました。千葉の方にはよく行くんですけれど、津田沼に来たのは初めてです。津田沼ルーテル教会は存じておりましたけれど、どんな教会なのかなあと楽しみにやってまいりました。すばらしい十字架ですね。もう本当に入った瞬間にすばらしい十字架をこの教会員の方たちが拵えて下さったんだなあ。そして、皆さんの気持ちが結集したこの新しい、私には去年建ったようにみえますけれど、本当にすばらしい教会だと思います。
 さて、今、教会讃美歌184番を歌いました。私たちは、ここに一人一人集っている、こう見渡していますと、皆さまがここに座っていること自体、そしてここに私が立っていること、渡辺先生がそこに座っていること、家内がオルガンをひいていること、その一瞬が本当に奇跡だと思います。一人一人がイエスさまとどのように近づいたか、それは、本当に一人一人の大きな大きな、あるいは神さまのご計画ではないでしょうか。今日の教会讃美歌184番では「我らはいのり、願う。主の答えは常にあれば、み国のよろこび、こころ、みたされる」非常にすばらしい賛美歌だなあというふうに思います。イエスさまが、世の中で、きよき石として、用いて下さる。これにまさることはない、そして、私たちはここに宮を建てる、そして喜ぶ。そのような主題がこの中にありました。
 さて、私は、ルーテル学院大からまいりましたけど、いったい何者か、家内自身も私の中のアイデンティティが、いったい何なのだろうかなということはよく知らないと思います。
 私自身もどのように自分を語るか、ということですけれど、私は古い家に生まれました。山口の古い旧家に生まれて、大きな屋敷でした。その屋敷の中には、神棚がずら~っと並んで、そして、先祖代々の物が並んでいました。徳川吉宗の旗本の何とかとはちょっと違いましたけれど、私は次男坊でしたから、山口では長男、次男は天と地ほどの差なんですね。まあ、何をしても自由な訳ですね。じゃ何をしようかということでした。代々続く長男、父、祖父、この三人はいつも一緒に食事をしていました。私はというと、3歳のときに、どうして一緒に食事をさせてもらえないんだろう、おいしいごちそうが、食卓にたくさん並んでいる。
 覚えてないんですけれど、私は革命を起こしました。母が言うには3歳にもならない私が、縁側に大の字になって寝たそうです。そして、何と言ったかというと、「お母さん、一緒に死のう」と言ったんだそうです。よほど悔しかったんですね。ごちそうを目の前にして一緒に食べることが許されないという、その屈辱、なぜか「死のう」とまで言ったそうですね。で、その言葉を聞いて、母が、祖父に嘆願をして、一緒に食事をさせてほしいと。女性は別でした。しかし、私は一緒にまぜてもらうことが、それ以降はできたようです。そのことは、全く覚えていないのですが、いつも一緒に食べていた。そして、この納戸の中には、祖父が「何」というと、「あ、ここには桃の缶詰が入っているぞ」ということも分かっていました。そして、それを一緒に食べて、平等に扱っていたと思っていたんですが、後で分かるといろんなことがあったなあと思ってみることがわかりました。上村家の地所の中に地図にも載っていますけど、島があります。その島に私は小学校4年生の時1回だけ連れて行ってもらいました。そして、父と兄と私3人で自然豊かな良い所でした。そこで何を見たかというと、地元の方がその地所にあるたて岩稲荷神社、そこをお祭りしていたんですね。私の母は山口でも2つの文化があります。長州と周防という2つの文化があります。長州というのは高杉晋作や吉田松陰や幕末の志士を有する、革命の志士、この人たちが生まれた日本海側のところです。「萩」とか「せんたき」とか「金子みすず」もそこら辺で生まれた詩人でした。私の母はそちらの貧しい漁村の出身でした。しかし、感性は非常に豊かでした。山口に行かれたときは、「ようこそおいでませ」という宣伝がよくされておりますけれど、萩に行っても何もありません。
 私もびっくりしました。豊かなのは瀬戸内海側で、毛利様も瀬戸内海側にはいませんでした。ここには、サラリーマンの方もいらっしゃると思いますけど、どこに行きたいか、神学校で、もそうかもしれませんけど、神学校ではまずそういうことはないかもしれませんけど、大体行きたいと言った所へは行かせてもらえません。3個所、毛利様は徳川から示されました。温暖な父がいる、私がいる「ほうふ」がいいわけです。そしたら、1番貧しい萩にやられたわけです。こういうのは、人間の社会の常であると思います。
 ところが、毛利様は、そこ「萩」ではなくて「防府」に平屋造りの立派な毛利邸というものを現在でも残しています。殆どの方は、ご存じないのでこちらには行かないんですが、もし山口に行かれることがあれば、山口が「萩」ではなくて、「防府」市の毛利邸にぜひ行ってみて下さい。私の父の家がどういう家であったかということはよく分かりません。それは、昭和2年に津波が瀬戸内海であって、家が全部流されました。また、毛利の、私は菩提寺だと思ってたんですけど、菩提寺ではなくて、「じがんじ」、お祈りのお寺があります。万願寺、万の願のお寺と言いますが、天神様って、京都に地の天満、それから「大宰府」天満、そしてもう一つ、この「ほうふ」天満、これが3大天神と言われています。「ほうふ」というのは防ぐ府と書きます。
 地元では「ほうふ」ではなくて「ぼうふ」と読む。中学校1年の地理の時間で、私がこの地名を何と読むのかと言われたら、「ぼうふです」というふうに言ったら、ある地方の教科書では「ほうふ」になっている。違う「ほうふ」だと言われてショックを受けたことがあります。地元では「ぼうふ」ということになっていますが、防ぐ府は、聖徳太子の弟のその塚もあるというふうに聞いております。その防府天満宮の隣りに万願寺というのがありました。そこに唯一上村というお祈りのお寺があるにもかかわらず、お墓が一件だけありました。ですから、おそらく今は没落して何もありませんけれど、当時は、毛利の財政的な基盤を塩田を代々経営しておりましたので、支えていたのではないかなあと思います。
ところがご存じのように昭和になりまして塩田廃止法、塩田が日本では作ることができなくなった。塩を国の独占にしましたのですから、スーパーで塩という風になると、国の独占ということでタバコと塩は国の独占になりました。廃業しました。その廃業の結果良かった。父は会社員になりまして、日本全国、大阪、新潟、富山、東京、茨城、そして、アメリカ、東京、山口、いろんな所を転々としました。
 これは何が良かったかというと、日本の中でもいろんな風土というのがあるんだなあというのを知ることができたわけです。特に北陸の新潟と富山は、私の青春の原風景になっています。新潟では先ほどお話しを牧師先生にしていただいた訳ですけど、私はすごく日本海に佐渡島を見て育ちました。松尾芭蕉が「荒波や」と歌った、まさにそういう世界がある。私自身はいつもぼおっとして、海をながめて、夕日が沈むのを毎日ながめておりました。夕日が終わると今度は月が出てくる、星が出てくる、満天の夜空、天の川をみて、砂浜に寝転がっておりました。本人はなかなか帰らない、問題児でした。これは、後には良かったことですが、お医者さまの誤診で、私自身は小学校に上がる前に死んでしまうということだったので「心臓リューマチ」ということで、死ぬまで遊ばせてあげようということで、今日まで遊んでいる訳ですが、まだなかなかしぶとく生きております。小学校の時になってもなかなか死なないので、4年生の時、に調べてみたら、誤診だったことがわかったのですけれども、やはり勉強もしないで、ぼおっとながめて、幼稚園も最初は行かないでみんなは何かをしょってどこに行くんだろうと、私は砂浜で、ずっと山を作って延々と海から水を汲んで、水を流して、島を作ってとにかく遊んで、まっ黒になって遊んでいました。もしかしたら、それが良かったのかもしれません。たぶん、それが、後で聞いたら、お医者さまの最高の療法で、へたに治療を受けた人は皆死んでますと言っていました。
 ですから、私は何もしないで、死ぬまで遊ばせてあげようという母の思いやりによって、生かされたのかなあと思います。
 ですから、私自身は学問ということはやはり図書館で、やるということがなかなかできない。大学にいて、アメリカにも留学をさせていただいて、図書館の中に、入り浸ったこともあります。しかし、本当の学問というのは、何だろうかな、というふうに考えた時、そうではないだろいうというのが、私自身小さい頃、特に新潟で受けた影響があると思います。その後、小学5年生に富山に移りまして、富山は新潟と全く違う。そういう風土。この中で富山出身、あるいは富山に行かれた方、ああ、いらっしゃる。びっくりしました。じゃあ、この方言を言ってもわかると思います。私が新潟から富山に行って、最初に聞いた言葉が、「だらだあわじまやっとあけちょみやん」という言葉でした。お二人はすぐ笑っていらっしゃるけれども、通訳をすると、「だらだ」というのはまあ、何でしょうね、大阪弁で言うと「あほな」という感じでしょうかね。「あんま」っていうのは、お兄さん「何やっとあけ、何やってるんですか。」ちょみあんというのは、よく喧嘩で使うのですが、「おっちょこちょいね」何かそういふうな言葉ですね。もうちょっと速かった、最近使ってないので速く言えませんけれど、「だらだ、あんま、何やっとあけちょみやん」。いったいどこの国に来たんだろうかなというふうに思うくらい、カルチャーショックを受けました。
 立山連峰、親知らず、子知らずに囲まれた、そういう所ですから万葉集では、大伴家持がこの国の人たちは鳥がさえずるようだというふうに、記録をしています。今日までその鳥がさえずるのは、続いていると思います。
 私が、この富山では、新潟と全く違う、新潟ではぼおっとずうっと、空を見上げていたのですが、おかげでですね、やはり記憶力というのは非常に良かったんだと思います。ですから、授業でもノートは取らない、一切、試験勉強はしない、そういう中では中学校では剣道部に入っていますので、7時から7時というふうに、母が言っておりましたけれど、帰ったら食事をしながらずっと寝て、翌日の7時まで寝てしまうという、そういう生活でした。
 しかし、授業だけは、集中して聞いていたんでしょう。ですから、成績は悪くはなかったと思います。高校は富山県ではローカルなんですけど、東京大学に乗れる高校に行くことができたわけですけれども、しかし、その中で私は悩んだのは何かというと、勉強はどんどんやらされる感じなんですね。毎月毎月、標準テストと言いながら標準をかなり越えた試験が追加されていました。
 その試験というのは、毎回英語の本が試験範囲になります。1か月でこれを読んで下さいという感じ。私は一切読んでいきませんでした。本は読んでいかないで、いきなりぶっつけ本番でやっていたので、成績はそれほど、当時はその高校に入ると350人いる中、100番以内に入ったらまちがいなく、東京大学に入れる。多くの人はお医者さんになりました。私は、100番の中の入ったのは、2番で入りました。1番で入った人は東大の医学部に入りましたけど、私は漢字1個まちがえたようですけれど、それでずうっと、剣道部プラス、コーラス部に入りましたので、勉強しません。そんな感じで、当時は300番でも国立大学の一期校には入れるので、299番で出ました。ぎりぎり、300番の中に入りましたので、筑波大学のできたばかりの所に入ることはできたのだけれど、そういう中で私がずっと思っていたのは何をしようか、富山では男性は普通は何も考えなくても理科系に行く。ですから、何も考えなくても理科系に行って、数学や物理や化学をやって、将来は今でもその夢は捨てておりません。私の同級生だった田中耕作君もノーベル化学賞を取りましたので、彼がちょっとだけ先に取ったので、私はノーベル物理学賞を取ろうというふうにライバル心を燃やしております。
 アイデアはあります。物理は発想ですので、これからは又、ルターの時代やコペルニクスやその他、レオナルド・ダ・ビンチの時代に近づいてきているような気がいたします。どんどん、どんどん学問が細分化された1960年代と違って、また、統合が始まって、学問の根本が神学というふうに物理も数学も来つつあるというふうに思います。
 ですから、一つだけ例を話しますと、当時学長であった江崎れおな先生が、博士ではないんだけれども、ノーベル物理学賞を取られましたけれども、ちょっと実験をやってみますね。よく見てて下さい。(扇子を閉じたものを説教台に立てる)。皆さんが、ノーベル賞を取れるかどうかの実験をいたします。これは、マジックじゃあないんですよ。後ろの人、よく見えますか。これを私が聖卓を通過させてみせますから、よく見ててくださいね。だまされないようにね。じゃ、行きます。(トンと扇子の先で卓をたたく)通過しました。見えた人。いませんか。だめですか。じゃあ、もう1回だけ。聖書にもありますけど、心の耳、心の目で見て下さい。
 イエスさまが大衆に言うときには、譬え話を用いた。それは、聞くには聞くが聞いていないというふうにおっしゃっていますね。みなさん、大衆じゃありません。私たちは選ばれた人たちですから、もう1回行きますよ。いいですか。今日の1番大切なポイントです。ちょっとサービスしますね。ここにマイクを。(コツンという音)通過しました。分かった人、たぶんいると思いますけど、みなさん、おしとやかなので、言わないんだと思いますけど、これはですね、この物体の見えるものではなく、音が通過して行く、ということを江崎さんは気が付いた。それが、江崎ダイオード半導体を開発した。ですから、私たちは見えるものじゃなくて、いろんなものが、あるわけですね。この音という(コツ、コツ、コツ)この音が通過しているこの発想で、当時の真空管から、半導体という大きな転換が行われたわけです。ですから、ノーベル賞の種というのは、その辺に転がっている。田中君も、彼は貧しい家の人だったのでケチだったのですね。ケチというか、物を大切にすると言った方がいいですね。実験に失敗をする。それを捨てることができなかったんですね、捨てることができなくて、一晩おいていた。おいていたために、そのすぐに捨てていたら大発見はなかったんですが、一晩置いていたために、たんぱく質の精製が大きく変化して大発見につながった。彼は英語があんまりできなかったので、ただ良かったのはちょっとでも英語の論文を書いていた。それで、ノーベル賞というのは原点まで戻りますから、発表したのは一体だれかというとその田中という者が、30年前に発見したものだ、その論文がすぱっと残っていたということが発表されて、彼は校内のメールで廻ってきましたけど、田中耕作君が物理学賞を取りました、俺たちの同級生のあれがなあと言ったら、彼自身も知らなかったようで、電話が来て、英語でノーベル賞がもらえたことを彼は聞き取りができなかったですね。何か賞はもらったということがわかって、サンキューと言って報道人とかたくさんの人が集まって来て大変なことになったと。
 奥さんも同じ高校だった人ですが、たまたま、法事で富山に帰って、タクシーの運転手さんのラジオで今年のノーベル物理学賞は田中耕作さんですと聞いたとき、ああ、私の主人と同じ名前だわというふうに聞き流していたら、本当にそうだったとそのくらい彼も江崎レオナさんと同じように、博士を持たない、未だに学士のままですね。
 学士のまま、ノーベル賞を取った、そういう人物であるというふうに言われています。今日はたくさんのことをお話ししたかったんですが、冒頭でお話ししたのはここに集まっている一人一人の皆さんが、ここに居るということだけでも奇跡であるということを申し上げたいということです。
 で、私自身が、ここにこうやっている。ですから、物理を目指していた、本当は京都大学の物理学に行きたかったんです。小学校の時から、湯川英樹と中間子論ということを。
 彼もぼおっとしている人ですから、私も似ていますよね。ぼおっとして、親が心配して、この子は本当にできるんだろうか、まあ、大学に行かせんのがいいんじゃないかと言ったら、高校の先生が、ぼおっとしているけれど、見所はあるというふうにおっしゃった一言で、大学に行かしてもらった訳ですね。実験物理学は手があまり器用でなかったようで、むずかしかったので、基本物理に行く、その時に、小学校の時にぼおっとしていて、木の葉が輝く、そういうものがその原子と電子の間の中間子という考えに至るきっかけになったと述べていらっしゃいます。
 私自身も新潟の海をずうっと見ていましたので、きっとこの津田沼教会で上村敏文が話した、ああ、あの先生にサインもらっとけば良かったというふうに後悔なさらないようにお願いいたしますね。
 冗談ですけれど、私は悩みました。高校時代にかなりプレッシャーのある高校に入って、多くの人たちが、何か一流というものを目指していく。その中で何をやっていけばいいのかということでかなり迷った訳ですが、一つの選択としてテレビを見ていて1番美しい顔をしている人はだれかと思って見ると、政治家はだめだな、1番きれいな顔をしているのは、音楽家だなあと思いました。だから、音楽家になろう。それから、今一つの可能性としては宗教家、宗教家もきれいな顔の人があって、多いので、宗教家か音楽家かどっちかだなというふうに思った訳ですね。ポイントは何かっていうと、何か世界の未来のために、働くことができないかな、ということだったんです。世界の平和のためにというと、当時は、短絡的に国連ということが、頭に浮かびましたので、国連に行こうと思ってできたばかりの筑波大学に社会工学という理科系と文科系を合体させた、そこに世界中の国際連合や世界銀行やOECDや、いろんな世界の国際貢献を経験された先生方を教授に招いて作った大学であり、富山の高校の先生が東大は日本の灯台だと、筑波は世界の灯台と当時おっしゃったので、それを信じて行きました。
 残念ながら、バブルもありましたし、一説には大学ができたと同時にリニアモーター・カーができるというふうにも言われていたので、その計画は全く隣りの孤島になってしまったので「上野の夜行列車降りた時から」という学生エレジーが歌われるようになりました。非常に、女性もスラックスをはいてたら、モンペじゃないかとまちがわれるような感じの田舎の中で作られた大学でした。ただその中で、いろんな出会いがあった私自身の証言ということなので、少しお話をさせていただきますと、国連に行くわけです。
 世界公務員として働くためにやはり、英語が必要だ、それからしっかりと教養で、数学、微分、積分、せんけい代数、コンピュウーター、ありとあらゆる教養は身につけよう、図書館と教室と寮の3点しか移動しませんでした。そして、アフリカなんかは、英語とフランス語はほとんどで、国連でもフランス語と英語が中心となりますから、フランス語はいつもイヤホンで聴いていて、友達から耳が悪いのかと。そうではなく、語学の勉強をしているとみせていると、同時に、今は大学は、真面目です。よく勉強します。ただ、当時は、大学に入ると皆遊んでましたね。ですから、大学に入って遊ぶ奴とは、話がしたくないというふうに思って、拒否の反応スタイルではあったんですね。そういう形で、常に勉強を2年は、死に物狂いでいたしました。
 ところが、3年になった時、私の専門に入ったと同時に、アメリカ帰りの新進の若手の先生の一言によって道を大きく変更することになりました。それは、こういう一言でした。それは、経済政策の授業だったんですが、「浪費は美徳だ」と先生おっしゃったのですね。えっと、何ですか、とね。あの経済学では消費は美徳という風に言われます。これは、消費をすることによって、また、生産をするということですから、需要と供給の関係があって分かるんですが、その先生は「浪費は美徳」とおっしゃる。その瞬間に怒りがこみ上げて来ました。今だとある程度は理解できるんですけど、20前後の時には「浪費は美徳」だと。で、もうこういう学問はするに値しないということで、もう勉強をぱたっとやめました。
 そして、旅に出ました。その旅というのはお恥ずかしい話ですけれども、悟りの旅でした。先ほど、高校の時に音楽家になるか、宗教家になるかということで、お坊さんになろうと思いました。座禅を組んで、悟りを開こうというふうに思って、山にこもりに行きました。夏休みを利用して。まだ、髪の毛があるので、お坊さんにはなっていないのですが、じゃ、上村、どうしたのかっていうと、そこで一人の出会いがありました。
 私たちは、皆さんもここには多くの人生の先輩方がいらっしゃいますが、やっぱり変化をする時っていうのは何か出会い。これは、神さまがやはりもたらして下さったものだというふうに私は思います。で、その一人の方、これは商社マンでした。
 商社マンですが、心のきれいな方で、これは、戦前の大財閥の御曹司の一人だったんですが、やはり大学に行って、そして、宗教家に本人はなりたかったんですが、親がそれを許さないで、オレは、おまえを宗教家にさせるために大学に行かせたのではないということで、包丁を突き付けて、そして結局は、商社に勤めることになったそうです。
 10年間たって、やはり、どうやって競争社会を生き延びていこうかという激しい社会のようですから、私はそこら辺は経験してないのでわかりませんけれども、その方はうつ病になっていらっしゃいました。うつ病になって、100キロくらいになって、もう薬づけですから、ぼおっとされていたんです。
 その方が、その場所で、みんなが、避けてたんですけれど、私自身は、疲れますかと声をかけた。それが、私が、ここに立っている理由なんです。疲れますかと声をかけた。声をかけなかったら、ここにもう私はいません。そのまま、素通りをしてたならば、お坊さんになっていたかもしれません。まあ、わかりません。そしたら、その人がこういうふうに言いました。言葉もよく舌もまわらないんですね。「うううううえええええむむむらららくくくくん」。ふるえる感じで住所を書いてください、って言うんですね。もう絶対に書くものかと思って、うその住所を書こうというふうに思っていました。で、そしたら、本当の住所を書いちゃったんですね。大学の寮の住所を書いてしまったんですね。で、ああしまった、書いちゃったと思ったんですよ。まあ、それはしょうがない。ま、いいやというふうに思ったらすぐに手紙が来ました。
 手紙はこんなに失礼な手紙はないな、マジックで書いたような、そういうものでした。最初は、何だ、この手紙は、というふうに思ったんですが、最後まで読み終えてみると、涙がこみあげて来ました。それは、神道との出会いだったんですね。ひとりの人を紹介したいと。私達自身は山口で母は革命家の方ですから無宗教で、旧家に嫁いでいながら、一切宗教行為はしませんでした。神棚に手を合わせるだとか、仏壇に何をするだとか拒否をしましたので、私の身体の中には半分は革命家、半分はそういう伝統的な血が、2つ流れているので、表面はやさしそうに見えるようですけれど、内部は怒りとかいろんな怒りがグラグラグラグラにえたぎっていました。これもある人との出会いで怒りが解消した訳ですが、これはまた、午後の講演の時に機会があれば話たいと思いますが、その商社マンが連れてって下さったのが、宗教家。私はその母から、宗教と学生運動は、やっちゃだめよと言われていましたので、宗教かということでしたけど、一度だけでいいということでしたから、一度だけ行ってあげましょうという感じで行きました。
 で、その時、私自身無神論でしたから、見えるもの、形にあるもの、そういう実験を通してやる世界にいましたので、宗教?神さま?神さまを信じるということはどういうことだと、どういう人たちなんだろう、神さまを信じることをしている人たちは信じられないというふうに思っていた時代でしたから神さまを信じる神道というのはそのままですね、神の道です。これは最後に申し上げますけれども、私自身午後の結論でもあるのですけれど、神道とは一体何かということです。
 これは国学院大学のある教授がおっしゃったとおもいますけれど、10人の神道家がいれば、11の理論があるというふうにおっしゃっていました。経済学ではね、10の学者がいれば、10の理論があるというふうに聞いていましたけれど、神道では11の理論があるということは、神道の理論そのものが、非常に錯綜しているということを意味しています。いろんなことを言う人がいます。
 学者も含めて、民間も含めて、いろんな人がいる訳です。神道とは一体何か、ということを定義づけるということは、実は非常に難しいことです。神道といえば、キリスト教の立場から言えば、多くの人は、明治神宮だ、靖国神社だと批判する訳ですけれど、この体系というのは明治以降に始まった特殊な神道ということが言えます。ですから、本当の神道というのは一体何かというと、これは一言でいうならば、祭りということです。祭りという漢字を分析してみて下さい。3つの部分に分かれます。ちょっと頭の中に祭りという字を書いてみてくださいね。そうすると、左上に「夕」みたいな字がありますね。これは、肉をあらわします。そして、右側の「又」という字は手を表わします。そして示す辺ですが、これは、神さまに関係があることです。
 示す辺の中間部分は机です。神道では机がささげ物としてあります。おそらくこれは、中国、もしかしたらもっと西の方からかもしれませんけど、祭りというのは、お肉を祭壇にささげる、そして、示す辺の点というのは血を表わします。
 血がしたたっているのを2つの点であらわします。ですから、祭りというのは祭壇に肉をそなえるというのが祭りの意味です。これは結論に至っていたんですが、新しい文書が、実は今年出てきました。古事記や日本書紀より古い文書が出てきました。それから、昭和2年に書かれた本、これは、あるぐうじさんが書かれた本、ほんとに大学図書館にはない本です。なぜないかというと、マッカーサー元帥がこの本を徹底的に回収しました。私自身もこの本を初めて見ることができました。たまたま機転を働かせた方が、大学の図書館だと持って行かれてしまうので、小学校の図書館に入れておいたんです。小学校までは来ないだろうと。小学校においておいたその本が、私の知人が持っていましたので、それを拝見しましたら、大変びっくりすることが、昭和2年の段階で書かれていました。
 このことは、実は、来週京都で1つの大きな会があります。その場で学問的にどのように扱われるかということによって今後の歴史、神道の考えが大きく変化をしていきますからまだここで話すことは控えたいと思います。まさに、来週、そのシンポジュウムが行われます。
 私自身はほぼ一つの結論に至っていたんですが、その文献と、マッカーサーが徹底的に回収したのがこれも不思議です。マッカーサーが日本語を読める訳がありませんから、どうしてその本をターゲットにされたのか、これは、陸軍でも読まれていました。その最初のところだけ、みてみますと、四千年の歴史というふうに書いてありました。
 そこのポイントは何かというと、日本の起源というのがメソポタミアであるということが、昭和2年に書かれているんです。それも、神主さんが書いているんですね。で、私は本当に驚愕しました。民間ではいろいろいわれていますが、「証拠」がないのでわかりません。ただその証拠をさがしているのは、ルーテル神学校の隣りにある中近東文化センターというのがあります。これは、名誉総裁は三笠宮殿下、昭和天皇の弟で、彼は、オリエント学会あるいはヘブライ語もたんのうでいらっしゃる。
 その方がなぜ、中近東の発掘をする、これは、出光が出資をしていましたが、そういうところの総裁なのか、日本のルーツは、未だにわかりません。言語学的にも去年、今までは、大岡進先生のタミール説というのがかなり強力でしたけれど、これも今は覆されました。ですから、言語学的にもウラル、アルタイなのか、マライ、ポリエシアなのか、タミールなのか、全部覆されましたので、わからなくなりました。
 日本の言語学者、東大、京都大学のシンポジウムにも、京都であったので、激論にもふれてみましたけれど、結論はわからない。私は、最終的な結論というのは国立遺伝学研究所、そして、東京大学が1992年以降行っている遺伝学の研究で決着がつくんではないかなというふうに思っています。あと、数年で決着がつくのではないかと。データは膨大にあります。ですから、データの解析が進めば、結論に近いものが出るかもしれないというふうに思っています。
 結論は一体何かというと、日本最古の神社、いくつかありますけど、そのこの神社、天の橋立てにあります。その宮司さんに私自身が一番最初にはじめたのは、イギリス人や、オランダ人なんですけれども、日本人の顔を見てみると、津田沼教会に来てみてびっくりしました。いろんな顔の人がいる。単に古事記を見ると、出雲大社のルーツは、朝鮮半島から来ている。一般の人たちは、私たちは中近東の方から来ていますと。出雲の人たちは明らかに違う日本人とは思えない、もうひとつは、熊野です。何であんな僻地に天皇家があるいて行くのが大変なのに熊野もうでをしている。
 これを白河天皇とか何回もいらっしゃる。その理由はわかりませんが、あすこら辺の顔を見るとやはり日本人ではないです。これは、渡来人だなあと思います。京都海部宮司にうかがうと、明確に渡来の神道のルーツはメソポタミアです。びっくりしました。それならば、どういうふうなルートかは全く残っていません。
 これは学問的に証拠はありません。中国の敦煌で発掘されたようなものがない限り、明らかにすることができない。なぜ日本にそれがなかったかというt、大化の改新で文書が焼き払われた。ですから、その後に編纂された古事記だけしか残っていない。大化の改新で焼かれたものがもしかしたら、数年前から私が言っていたのですが、どこかの神社に残っているのではないかと。それが、今年出て来ました。
 一つは河口湖、せんげん神社、もう一つは日吉神社の祭り小屋から出て来ました。
 祭りというのは、これは、現代の日本人の多くが誤解しているのですが、あれは神さまに犠牲をささげる。これが祭りのエッセンスです。それ以外のものはありません。ですから神道の一番大切なものは、神さまにお肉をささげうということ。今どういうわけか、初穂がいなほにかわっている。しかし、伊勢神宮、11月23日、昔は新嘗祭。私たちは、新米はその日以降でないと食べられなかった。日本人はいろんな意味で宗教的なものが剥奪されていきます。これは、午後に話します。
 今日のまとめは、「日本人は日本人のように」ということです。パウロは、ユダヤ人に対してはユダヤ人のようにというふうに言っていますけれど、私自身がルーテル神大に招かれたのは数学を教えてほしい、物理学を教えてほしいということではなくて、私が悟りの旅で出会った65歳の無名の神道家の方に一言、「上村君、信じようと信じまいと神さまは
厳然としていらっしゃいます」というふうに静かにおっしゃられました。その瞬間にどうやたら神さまを信じることができるんだろうかと思っていた理科系のゴチゴチの頭の中にすうっと神さまが入って来て、その時から今日までそれは消えることはありません。神さまはいらっしゃいます。「宗教として、キリスト教が最高です。」びっくりしました。
 キリスト教というとネガティブにとらえがちですが、「神さまのひとり子であられる方の唯一の教えだからです。」
 その瞬間に嫌いだったキリスト教、イエスさまについていこう。十字架の下についていこうという決意をいたしました。ですから、クリスチャンになったのはいつか、洗礼を受けた時なのか、どうなのか、神学者におまかせですが、私は21歳の時に思った。神道の先生がおっしゃるには、3年目はめちゃくちゃ、5年になって自分が出てくる、10年しないと1人前にはならないということでしたから、10年やろうと、筑波から東京まで、6時間かけて通い続けました。大学にはいたくなかったので、卒業だけはしましたが。
 日本という国はすごい国だなとその神道の先生から学びました。実践を考える学問をと自己の勉強もしました。このようなプロセスの中で、10年神道を21歳から31歳まで勉強し、自分は卒業したなあと思いましたが、いろんなことが起こって、落っこちましたが、落っこちた時というには、人生の底、31歳から出会いがありました。元祖フリーターでしたから。筑波の助手のポストを断って先生を怒らせてしまいました。
 4日だと、神道の勉強ができなかったから。皆さまにもいろいろなキリスト教の出会いがあると思いますが、アメリカのルーテルの神学校でも勉強しましたが、牧師にはなりませんでした。
 日本の風土、パウロが仮に説教するとしたらどうだろうか。申命記30章14節、神さまはあなたのすぐ舌の先にありますよね。神さまは、ずっと遠くにいると思っていたのですが。私たちは、この聖書から生きるキリスト教、燃えてやる気があれば、義務ではなく、楽しく喜びにあふれている姿をみて、人々は教会に来る。お互いに祈り、祈られ、支えられていきましょう。アーメン。

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2013/07/21(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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