津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリスト告白と受難・復活予告」(ルカ9:18-26)
ルカ福音書9:18-26、2013・07・07、聖霊降臨後第7主日(典礼色―緑―聖餐式)、ゼカリヤ書、ガラテヤの信徒への手紙3:23-29

ルカによる福音書9:18-26
 
イエスはひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」


説教「キリスト告白と受難・復活予告」(ルカ9:18-26)

このところ、百人隊長の信仰の物語や、罪深い女が、食事の席に混じり込み、香油で主イエスの足を拭うといった記事が読まれて来ました。今朝、与えられている記事は、それから一気に飛躍して、「キリスト告白と受難・復活予告」の記事、ルカによる福音書9章の18節から26節が与えられています。そして、次週の主日の福音は、ルカ9章の51節から62節が日課として与えられています。
ルカ福音書の教会暦の山場へと急転回しており、今日のペトロによるキリスト告白、そして、主による受難・復活予告の記事が与えられており、いよいよ次週から、エルサレムへと主イエスが顔を向けて、十字架への旅が始まる分岐点に立つのであります。ある日本人の手によるルカ福音書の概説書は、ルカによる福音書の副題として、「旅空を歩むイエス」と付けていますが、まさに、次週から、エルサレムへ向かっての「旅空を歩むイエス」の出来事と、その旅の途中で、主イエスが語ったみ言葉や、なさったみ業が、読まれていくのであります。今朝の記事は、それに入る前段階としての重要な記事であります。
その記事について、辿りながら、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
今日の記事は、もとの文を見ますと、「そして、成ったことには、彼、イエスが祈るということにおいて、彼だけがいた、そして、その弟子たちも一緒だった」という一見矛盾した表現で始まっています。これは、どういうことでしょうか。これは、多分、弟子たちと一緒にいたのだが、主イエスの祈りとは、別次元の世界に弟子たちはいた、主イエスは、弟子たちとの思いを別にして、同じ所に居ながら、重大な祈りをただ一人、しかし、天の父なる神に向かって祈っておられたということでありましょう。
他の福音書では、今日の個所は、フィリポ・カイザリアの辺りで、起きた出来事とされているのでありますが、ルカ福音書では、5000人への給食の奇跡の後に、しかもそれとは無関係に、起こった出来事として、場所や日時の設定は記されていません。
自分が何者であるかを、示すべき時が来て、ルカ福音書でしばしば出てくるように、主イエスは、真剣に父なる神に祈りをささげていたのであります。
そして、「私のことを、群衆は何者だと語っているか」と突然弟子たちに、尋ねられたのであります。弟子たちは、主イエスの評判に基づいて、語ります。ある者は、洗礼者ヨハネだと、また、別の者はエリヤ、終末のときに来ると信じられていた、天に上げられていったエリヤだと、また、古い預言者たちのうちから生き返った者だと言っている者もいますと。自分の後から自分のような預言者が現れると宣言していたモーセのような預言者だと見た者もいたのでありましょう。当時は、新聞もなければテレビもない古代世界でありますが、主イエスの巻き起こした旋風は、当時のイスラエル、あるいはパレスチナ一帯に広がっていたのであります。
その時代から、2000年近く経った現代においても、主イエスが何者であるか、だれであるかとの認識は一致しているわけではありません。私たちの多くも、主イエスがだれであるかが分かるためには、多くの経験や人々との出会い、特に信徒との交わりの体験を通して、次第次第に、時間をかけて、やっと、今の自分に至っているのではないでしょうか。
主イエスは、今度は、それでは、あなた方は私を何と言うのかと弟子たちの思いを尋ねられたのであります。それに対して、ここでも、衝動的な、しかし、12弟子の代弁者であるペトロが答えるのであります。「あなたは、神のキリストです」と。原文では、神のキリストですが、これは、神によって油注がれた者、メシア、あるいは、神によって遣わされたメシアだと、ペトロは答えたのであります。主イエスの時代、旧約聖書で預言されていたメシア待望が、行き渡っていました。主イエスの祈りによって導かれたペトロは、あなたこそ、そのメシアですとはっきりと答えることが出来ましたが、そのメシアが、どのようなメシアなのかは、この時点ではまだ、定かではなかったのであります。
それで、群衆にどのようなメシアであるかを標榜することを、主イエスは厳しく戒め、だれにもそのことを言ってはならないと命じられ、しかし、弟子たちにはお教え始められたのであります。すなわち、「人の子」御自分は、多くのことを苦しみ、長老、祭司長、律法学者たちから、無価値と宣言され、殺され、そして三日目に起き上がらされることになっていると、思いもよらないキリスト像を弟子たちに予告なさったのであります。
そして、私の後について来たい者、すなわち、私の弟子になりたいと欲する者は、自己を放棄し、日ごとに自分の十字架を担い、従順に私に従って来なさいと招かれたのであります。その当時、ローマ帝国の圧政に反抗し、捕らえられ、極刑である十字架につけられた大勢の者がいたと記録されています。その十字架を日ごとに担って、私について来なさいと、主は弟子たちに初めて、自分がどのようなキリストであるか、メシアであるかを知らせたのであります。
これは、何も、主イエスが御自分で悟ったというようなことではなくて、旧約聖書の預言を通して、聖書の全体が約束しているメシア、キリストであることを、明らかになさったのであります。そして、自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のために、それを失う者は、かえって、その命を救うのであると言われます。そして、たとえ全世界を得ても、その富を手にしても、自分の命を失い、取り上げられては、何の利点があろうかと言われます。そして、なぜなら、私と私の言葉とを恥じる者は、人の子が、彼と父なる神と聖なる天使たちの栄光において来る時に、すなわち、主イエスの再臨のときに、人の子もその者を恥じるであろうからであると、弟子たちを戒めておられるのであります。
今日の、ペトロによってなされた「あなたこそ、神のメシア・キリストです」という告白と、それに続けてなされた主イエスの受難、初めての十字架につけられるという予告とその三日目の父なる神によるよみがえりという予告が、厳粛になされ、その後について来る弟子たちの心備えが、主イエスによって求められているのです。
そして、次週のルカ福音書9章の51節からいよいよ、エルサレムに向けての、天に上げられる時期が迫っての十字架への旅、また、復活と天への昇天の旅が始まります。
弟子たちは、今日の時点では、主イエスが御自分について語られたことの意味が分かりませんでした。そして、主イエスの受難と復活の出来事の後に、さらには、主の昇天と、聖霊降臨の出来事の後に初めて、主イエスがどなたであるかを理解し、主イエスによって、今日の記事で勧められている自己否定と各人の日ごとの十字架を担うことと、己に死んで、かえって、主イエスのために命を失うことによって、永遠の命を与えられることを、徐々に知ることとなったのであります。
主イエスの弟子たちが、世界中に散らされて行き、2000年近くになりますが、私たちの周囲には、依然として、主イエスが、洗礼者ヨハネや再来のエリヤ、あるいは、モーセのような偉大な預言者の一人だと考えている群衆が溢れています。
しかし、今日の主イエスがペトロのキリスト告白を認められたように、聖書は、新約聖書、旧約聖書を通して、この方こそ、私たちの罪の唯一の贖い主、私たちを罪への堕罪から救い出して下さるアダムの裔であることを証言しているのであります。来週の日曜日から、その主イエスのエルサレムに向けての旅を私たちも、主イエスの弟子として、ペトロたちと共に、御言葉やみ業を知らされながら、今年の残された教会暦の半年間をご一緒に旅してまいりましょう。アーメン。

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2013/07/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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