津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神の義と愛」(ルカ9:51-62)内海望牧師
ルカ福音書9:51-62、聖霊降臨後第8主日(典礼色―緑―)、ヨナ書4:1-11、ガラテヤの信徒への手紙5:2-26

ルカによる福音書6:51-62
 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。

 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分の死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。


説教「神の義と愛」(ルカ9:51-62)内海望牧師
 
 先週も説教で指摘されていたようにルカ9章51節は大きな分岐点になります。今朝は、56節までを中心にみ言葉を聞きたいと思います。
 「決意を固められた」という言葉には非常に強い意味がこめられています。口語文、文語文では「顔を向けて」と直訳されていました。そのうえで、その意味は「固い決意を秘めて」ということなのだと注解されているのが普通でした。そこにはキッと顔をエルサレムに向けて歩まれるイエスさまの姿があります。ですから、同じ箇所をマルコ福音書で読むと、「その時、エルサレムに向かって、先頭に立って歩かれるイエスさまの姿を見て、ただならぬ雰囲気を感じ取り、「弟子たちは驚き、恐れた」と描かれています。これほど強い決意とは何でしょうか。それは、一つには「すべての人々を救う愛の決意」であり、同時に、罪人の罪を贖うために御自分の命を捨て、十字架への道を歩むという苦難に向かう決意でもあったのです。「天に上げられる時期が近づく」という書き出しの言葉も、このイエスさまの決意の重さを示しています。
 さて、「すべての人々を救うため」という時、当然そこには異邦人と呼ばれ、偶像崇拝に走った背信の群れとして憎まれ、軽蔑されているサマリア人、また人々が罪人と呼んで忌み嫌う人々すべてが含められています。従って、イエスさまは、普通ユダヤ人がサマリア人を避けて取る道筋、すなわち、迂回して、ヨルダン川東を通ってエルサレムに向かうという行程でなく、まっすぐに異邦人であるサマリア人の村を通って行かれたのかも知れません。そこにも神さまの祝福、救いがあることを知らせるために。
 しかし、そこでイエスさまは早速試練にあうことになるのです。村人はイエスさまを歓迎しませんでした。村人がイエスさまを歓迎しなかった理由は、イエスさまがそこに滞在せず、エルサレムに行かれる途中であったからだと聖書は記しています。しかし、口実のような気がします。何故なら、イエスさまは、「準備のために使いの者を出された」とわざわざ改まった文章でイエスさまの行動が記録されていることから、イエスさまは単に一夜の憩いのためでなく、人々に祝福を伝える時を持ちたいという強い愛の意志を読み取ってもそう深読みではないでしょう。しかし、何れにせよ、イエスさまは拒まれたのです。十字架への道は既に始まったのです。
 しかし、このサマリア人の態度に対する弟子たちの反応はわたしたちの予想を越えるはげしいものでした。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを滅ぼしましょうか」。私たちは、この言葉に驚かされます。「焼き滅ぼしましょうか」とまで言うのです。どうしてそこまで言うのでしょうか。
 しかし、考えてみると、民族間の憎悪というものは根深く人々の心に浸み込んでいます。現在でも数多くの悲劇が起こっています。このユダヤ人とサマリア人の憎み合いは紀元前722年にサマリアがアッシリアに滅ぼされて以来、延々と700年以上も蓄積された憎しみの連鎖なのです。しかも、当時のユダヤ人からすれば、「彼らサマリア人は偶像礼拝をしているから滅びるべきだ」という信仰的な大義名分があったのです。ヤコブもヨハネも自分たちは正しいことを言っているのだという確信があったと思います。だからいっそう怖いのです。神さまになり代わって正義を実行する気構えなのです。私たちも弟子たちを笑うことは出来ません。私たちも大義名分をかざして容易に悪の民族を周囲に作ってしまうのです。人間の世界の「正義」の恐ろしさを感じさせます。まして、それが信仰的確信と結びついた場合、恐ろしさはいっそう深まります。
 今日の「第一の日課」に出てくる預言者ヨナも同じところに立っています。神さまは、異邦人の町ニネベの町に行って悔い改めるよう勧めなさい、という命令に背いて逃げて行ったヨナを赦し、もう一度預言者として用いて下さいました。しかし、ヨナは、その自分を赦して下さった神さまの愛をすっかり忘れ、悔い改めたニネベの人々を喜ぶのでなく、ニネベの人々を赦す神さまの愛を悪しざまにののしるのです。ここに弟子たちの姿が重なります。弟子たちは、ヨナと同じように不信仰な間違った生き方をしている人々が救われるのを見るのは我慢がならないのです。ガラテヤの教会にしても同じです。パウロが怒りをこめて語るように、人間の正しさが人々を裁く群れを作りだしてしまうのです。
 しかも、このような大義名分をかざして隣人を裁くということは、私たちの日常生活のまで侵入しているのです。私たちは、しばしば自分が絶対に正しいと思いこみます。そして、どうしても赦せない人を作ってしまうのです。ヨナにせよ、ヤコブ、ヨハネにしろ、割礼を強要するガラテヤの教会にしろ、そこには私たちの姿もあるのです。むしろ、罪人である人間の姿があると言ってよいでしょう。
 しかし、それにしても、私たちの心には素朴な疑問が残ります。「罪人が救われるなら、善人は意味がないではないか」という疑問です。罪人が赦されるなら、正義はどこに行ってしまうのかという疑問です。

 私たちは、聖書の神さまが「義なる方」であることを繰り返し知らされています。今、私たちが読んでいる聖書日課のエゼキエル書にしても、罪人、偶像礼拝者(神さまを裏切った人々)を容赦なく剣で滅ぼす峻厳な神さまの裁きについて繰り返し語られています。思わず襟を正す、というかある時は目をそむけたくなるような場面もあります。
 しかし、私たちは同じ神さまが、限りなく愛の神さまであることも聖書から知らされています。同じエゼキエル書の18章には、「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。」という忘恩のイスラエルの民に対する切々たる愛の思いを神さまが伝えている箇所もあるのです。
 神さまは決して罪を見過ごしにする方ではありません。神さまは律法の一点一角もゆるがせにしないとイエスさまも山上の説教でおっしゃっています。これは義に対して絶対にゆるがせに出来ない義なる神さまの態度です。
 しかし、その同じ神さまが愛の神さまでもあるのです。傷ついた葦の一本一本を立ち上がらせ、今にも消えそうな灯心を手で囲って消えさらないように守るという細やかな愛の方でもあるのです。当然滅ぼされるべき背信のイスラエルに対して、「どうして死んでよかろうか」と深くため息をつかれる方でもあるのです。異邦人のニネベの町の人々が身分の高い人も低い者も自分たちの罪に気付かされ悔い改めた時、それを心から喜んで下さる方なのです。絶対的義である神さまは、同時に、絶対愛の神さまでもあるのです。

 ここで、冒頭のイエスさまの姿に戻って考えてみましょう。そこで、少しくどいほどイエスさまの決意の強さについて述べました。
 絶対的な義と。絶対的な愛、この決して交わることのない深い溝に挟まれながらイエスさまは十字架への道を歩み通すことを決意されたのです。この決意は、まさに神の痛みの愛と言ってよいでしょう。イザヤ書53章には、このイエスさまの姿が預言されています。「その私たちの罪をすべて主は彼に負わされた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。・・・(わたしたちが救われたのは)彼が自らをなげうち、死んで罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた人のために執り成しをしたのはこの人であった。」と書かれています。まさに、パウロが「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と語る通りです。イエスさまの十字架の愛は、決して義をそこなうことのない、神さまの愛の勝利と言えます。既に考えて来たように、愛なき義は、冷たい剣であり、義なき愛はただの甘えに堕するのです。しかし、イエス・キリストの十字架において示された神さまの愛は人間の義と愛を越えるものなのです。
 神さまのひとり子であるイエスさまの十字架の死によって神さまの義と愛がひとつになったのです。神さまのひとり子イエス・キリストの十字架の死というたとえようもない大きな代価が支払われたのです。だからこそ、今や私たち罪人が神さまと和解し、平和を得ることが出来たのです。私たちは神さまとの出会いを恐れずに、喜ぶことが出来るのです。
 わたしたちは、聖書を読むたびに、神さまの愛の広さ深さについて改めて感嘆させられます。パウロは、このイエスさまの愛を見つめながら「どんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにおける神の愛からわたしたちを引き離すことは出来ないのです。」と勝利の宣言をたからかにうたっています。
 しかし、同時に今日の聖書日課を通して私たちの信仰心の内容が問われていることに気が付かされます。私たちにはまだ神さまの愛の御心について、その大きさについて気付いていないのではないだろうか、という思いです。私たちの信仰心の狭さ、身勝手さに気付かされます。わたしたちこそ狭い信仰心から不信仰な者を非難し、正義を振りかざす者なのです。先ず悔い改めるべきはわたしたちであることを知らされるのです。
 神さまの前に自分が罪人であることを告白したダビデ王は、「(神さまは)打ち砕かれた悔いる心を侮られない」という事実に目が開かれました。そして、その後、赦された感謝と喜びのうちに人生を新しく生きることが出来たのです。打ち砕かれた魂の奥底から、心から悔い改める時、私たちもまた必ずダビデ王と同じ経験をすることが出来ます。イエス・キリストにおける神さまの赦しの愛は、打ち砕かれた魂に贈り物として与えられるのです。今日は、私たちは心から悔い改め、このどんな被造物も決して奪い取ることが出来ないイエスさまの赦しの愛を喜びましょう。そして、この愛に生かされて与えられた1週間を喜びの時として歩んで行きたいと思います。








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2013/07/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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