津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪を赦された者として」(ルカ7:36-50)
ルカ福音書7:36-50、2013・06・30、聖霊降臨後第6主日(典礼色―緑―)、サムエル記下11:26-12:13、ガラテヤの信徒への手紙2:11-21

ルカによる福音書7:36-50
 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消死にしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者なのだろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。




説教「多くの罪を赦された者として」(ルカ7:36-50)
 
本日の特別の祈り、主日の祈りは、実は二つありまして、私は、週報に掲載されている方を選びました。「悪魔は、内外に猛り狂い、私たちを試みようとしています。私たちが、たとえ倒れ伏すことがありましても、再び、御言葉によって立ち上がらせて下さい」といった内容のものであります。本日のルカ福音書7:36-50は、罪深い女の物語でありますが、また、ファリサイ派のある人、イエスを食事に招いたシモンも、主イエスの罪の赦しへの招待から、除外視されている訳ではありません。主イエスは、ファリサイ派のこのシモンの食事への招きに、喜んで応じているのであります。
 本日の部分は7:36-50でありますから、9章の51節から始まるエルサレムに向けての十字架に付くための旅立ち、そして、そこから復活して天の父のもとへと旅立つ、ルカ福音書の本論ともいうべき記事の始まりに、だいぶ近づいている段階での出来事であります。 
それが、どこの町で、いつの出来事であったのかは、詳しくは記されていません。ガリラヤのある町での出来事であったとしか、知ることはできません。
 その町で、ファリサイ派のある人が、イエスを食事に強く招いたのであります。主イエスはそれに応じられました。主イエスは、ファリサイ派や律法学者と激しく対立する場面もしばしば、記されていますが、御自身は、この記事にあるように、請われれば、誰の所にも、応じていかれています。ルカの7章35節に、「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と主イエスの語った言葉が記されていますが、ファリサイ派の人によっても、罪深い女の人によっても主イエスの真理は、それに従う人々によって証明されるのであります。
 さて、本日の出来事は、その食事に主イエスが招かれて、その当時のパレスチナの風習に従って横になっているときに、起こったものであります。イエスが、そこに呼ばれたことを知ったある罪深い女が、香油の入ったフラスコ、石膏の瓶を持ってやって来ます。そして、主イエスの後ろから、主の足を、泣きながら涙でぬらし、その髪の毛でふき、主の足に接吻していたのであります。そして、香油を取り出して塗っていたのであります。
 この女性は、売春婦であったのでありましょうか。性的な過ちを犯した女性だったのでしょうか。あるいは、その主人が不信仰な人であったのでしょうか。ただ、はっきりしているのは、後で出てくるように、罪深い者であったということであります。その女性は、涙で、泣きながら、主イエスの足をぬらしていたのであります。悔いの涙であったでしょうか、それとも、感謝の涙であったのでしょうか。ひょっとしたら、この日の出来事の前に、主イエスとの出会いがあったのかもしれません。そして、再会にやって来たのかも知れません。
 振り返りますのに、私は、最近、殆ど、泣いたことがありません。少年時代の頃までは、涙もろく、学校の講堂で映画などを見てもすぐに感動して涙を流したものであります。最近は、苦しいことがあっても、涙となるといった体験が殆どないのであります。
 しかし、改めて、振り返ってみますと、主イエスに出会ったのは、この女性と同じように、涙の中で、後悔と共に、主イエスの罪の赦しを知って、泣いた体験をした時でありました。
 さて、罪深い女の一部始終を見ていたファリサイ派の人は、心の中で言いました。「もし、この人が預言者であるなら、この女が、どんな女かわかるはずだ」と。主イエスは、それを、すぐに察知して言われました。「シモン、あなたに質問したいことがある。」シモンは、すぐに、「どうぞ仰ってください」と言いました。主イエスは、ソクラテス的な問答法を用いられるのであります。「二人の借主が一人の貸主にいて、一人は500デナリオン借りていて、もう一人は50デナリオンだった。ところが、二人とも持ち合わせがなかったので貸主は両方とも免除してやった。どちらの方が、貸主をより愛するか。」シモンは答えます。「より多く免除してもらった方だと思います。」主は、「あなたは正しく判断した」と答えるのであります。そして、その女の人を振り返って、言うのであります。「この人を見ないか、あなたは、家に招いてくれた時、足を洗う水をくれなかったが、この女は、泣きながら、涙で私の両足をぬらし、その髪の毛でふいてくれた。あなたは、私に接吻をしてくれなかったが、この女の人は、入って来てから、私の足に接吻をすることをやめなかった。あなたは、私の頭にオリーブ油を注いでくれなかったが、この女は、私の足に香油を塗ってくれた。それゆえに、私はあなたに言う、この女の多くの罪は赦されている、それで、彼女は多く愛したのである」と。
 ここの部分が大事なのであります。と言いますのも、この部分は、「彼女の多くの罪は赦されている、なぜなら、彼女は多く愛したからである」とも訳せないわけではないからであります。しかし、文脈と、聖書的な理解からは、「彼女の多くの罪は赦されている、それで、彼女は多く愛した、愛するのである」となるのであります。
 私たちの多くの罪が赦されたので、私たちは、感謝してより多く愛する者とされたのであります。私たちが、教会につながるのは、この主イエス・キリストの罪の赦しによって教会へと、そして、礼拝へと招かれているからであります。そして、ファリサイ派のシモンも、この主イエスの罪の赦しから、除外されている訳ではありません。彼もまた、罪深い女のような過ちは犯していないとしても、教会に、主イエスのもとに、招かれているのであります。
 人間の目からみれば、順調な、非を犯していないこのファリサイ派のシモンのような方も、この世の中には少なくありますまい。しかし、それは、程度の問題に過ぎなく、人間は皆、神の目から見れば、罪深い者ではないでしょうか。私たちは皆、本日の罪深い女の涙を、想い起こし、主の御前に涙すべき者ではないでしょうか。あの出来事がなかったら、あの挫折がなかったなら、どんなに私の人生はよかったことだろうと、考えないこともありません。しかし、私は、多くの罪を赦されたので、より多く主を愛し、主に感謝する人生を与えられたことを、それ以上に幸いだと、自分の人生を振り返って、確信するのです。そして、私どもは、ファリサイ派のシモンをも、同じ主イエスの罪の赦しのもとへと招待する特権があるし、責任があるとも思うのです。
主イエスは、女に、「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と最後に言われています。私たちの毎週の礼拝も、「行きましょう、主の平安の内に。」「神に感謝」と唱えながら、悩み多きこの世の信仰の旅路に派遣されていきます。主イエス・キリストが間もなく、向かわれるエルサレムでの十字架の死と復活によって、私たちの罪、神との関係が正常でない関係は、正常な関係へと既に回復されているのです。
 ルターが言ったように、私たちの生涯は一生悔い改めの生涯であります。主の日に、福音に耳を傾けながら、大胆に罪を犯し、しかし、それ以上に大胆に悔い改める信仰生活を送ってまいりましょう。
 
私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

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2013/06/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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