津田沼教会 牧師のメッセージ
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「幸いな人」(マタイ5:3-10)
マタイ5:3-10、2013・06・09、召天者記念礼拝

マタイによる福音書5:3-10
 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。」




説教「幸いな人」(マタイ5:3-10)

 今日は、津田沼教会では、特別に召天者記念礼拝を守っております。11月1日が全聖徒の日であります。そして、あの有名な宗教改革記念日は、その前日10月31日であります。マルチン・ルターは、全聖徒の日の礼拝に向けて、95カ条の提題を、ヴィッテンベルクの城教会の門扉にはりつけたとされているのであります。
 ところで、津田沼教会は、長年11月3日をバザーの日として守って来ました。それで、どうしても、全聖徒の日に近い日曜日、それは今年は11月3日(日)ですけれども、その日の礼拝後は、ただちに、バザーの準備に取り掛かるものですから、遺族の方々をもてなすことができなくなる。それで、本日、聖霊降臨後第3主日を、特別に、召天者を記念する礼拝とさせていただいているのであります。
 今日、与えられました福音は、いわゆる山上の説教のはじまりに出てくる主イエスの言葉、八福、八つの至福と呼ばれている記事であります。主は、弟子たちに、八つの幸いについて、ここで、述べておられます。原文を見ますと、詩歌のように、厳粛な文章となっています。祝福されているのは、その霊でもって、物乞いする者たちだよ、なぜなら、天どもの王国は、彼らのものだからであると、主は切り出しています。
 昔、京都教会で青年時代を過ごしておりました頃、関西で子供たちのための教会学校のキャンプが、野瀬という当時ルーテル教会が運営していたキャンプ場で開かれました。
 夏休みのことだったと記憶していますが、四つの場所に落ちた種という主イエスがなさった譬え話が主題テーマでありました。そして、最後の日に、主イエスの言葉を、木の断片に彫刻で掘って、記念に持ち帰るというプログラムがありました。そして、私たちのグループでは、本日の「心の貧しい人々は幸いである、天の国は彼らのものである」にするのか、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」にするのか、提案しましたところ、子供たちは一致して、マタイの方でなければならないと主張したのであります。その意味する所はほぼ同じなのですが、「心の貧しい人々」とは、自分たちのことであると、子供たちは本能的に察知したのでありましょう。
 その霊でもって、物乞いする者たちは祝福されているよ、なぜなら、天の国は彼らのものだからという第一の幸いは、八つの幸いの要約とも言えましょう。神さまにした頼れない、哀れな、弱い存在であることを痛感している人々こそ、天の国、神の支配に与る人々であると主は、弟子たちを慰め励まされるのであります。マルチン・ルターも、亡くなる前、自分は、神のみ言葉を物乞いする哀れな存在にすぎないと告白したのでありました。
 その霊において物乞いせざるを得ない存在、それが、キリスト者の実像であります。
私たちは、人間の語った言葉や、聖書の説き明かし、講義のようなものでも、必ずしも安全で、誘惑や試練から守られるといったものではありません。私はできるかぎり、毎日、30分間でもルターの著書を、英訳で読もうと思っていますが、それによって、必ずしも安全なわけではありません。悪魔の誘惑は、一生涯続くのであります。ルターも、死によって初めて、悪魔との戦いも終わり、聖化されると言っています。
 今日、先に召された方々の写真を飾っていますが、私たちの教会では、信仰告白や洗礼に与らなかった親や、伴侶、などの写真もご希望の方には持ってきていただいて、あるいは、教会で保管していて、召天者記念礼拝には、共におぼえるということをしております。
 私たちは、生きている間には、洗礼に与るように親であれ伴侶であれ、子供たちであれ、導く務めを与えられていますが、必ずしも洗礼に、あるいは、堅信礼に至るわけではありません。しかし、主イエスは、すべての人のために十字架にかかって罪を贖って下さったことを信じるのであります。「人は生きてきたように、死ぬものである」とある著名なアメリカの死生学者が語っています。思い通りには信仰生活が送れなかった故人もおられることでしょう。しかし、今は天に召されて、先達として、生きている私たちを、故人たちは励ましてくれているのではないでしょうか。
 嘆いている者、柔和な者たち、義に対して飢え渇いている者たち、憐れみ深い者たち、心の清い者たち、平和を作り出す者たち、義のために迫害されている者たちと、次第に受け身から、能動的な生き方をする者たちは祝福されているよと主イエスは励まされます。
 私たちのこされた者たちは、主イエスの言葉に従って歩んで行くように今日のみ言葉を 
励まされます。先に召された方々は、天の国から、私たちを応援してくれているのではないでしょうか。私たちの信仰を堅くし、残された人生を、み心に適ったものとしていけるように、主イエスの八福の言葉を想い起こしながら、励んでいきましょう。アーメン。

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2013/06/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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