津田沼教会 牧師のメッセージ
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「愛敵の器に」(ルカ6:27-36)
ルカ福音書6:27-36、2013・06・02、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―聖餐式)、創世記45:3-15、コリントの信徒への手紙14:12-20

ルカによる福音書6:27-36
 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも、同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」



説教「愛敵の器に」(ルカ6:27-36)
 
 作家であり、評論家であった亀井勝一郎さんは、もし、主イエスが、片方の頬を打たれたとき、あなた方は、他の頬をも向けなさいというような衝撃的な言葉を語らなかったならば、彼が十字架刑にかけられることはなかったであろうと、書いています。
 今日の福音書の記事は、そのような「平地でなされた説教」のあるまとまり、ペリコペーであります。説教題に揚げましたように、一言で言えば、あなた方は「愛敵の器」となれと言うのであります。
 これは、私たちの通常の本能や、感情からは、困難なことであります。いや、それどころか、私たちには不可能なことであります。
 しかし、父なる神がみ子を送り、本日の言葉を語っておられる主ご自身が、この「愛敵の器」となってくださった、そのことを想起することを通して、初めて可能になる在り方であります。
 私たちは、自分を憎む者、迫害する者、危害を加える者を愛することなど、本能的に言えば不可能なのであります。しかし、その不可能を可能にしなければならない、自分を十字架につける者を赦して下さいと天の父に十字架上で祈られた主イエスに従わなければならないのだと、神学者のバルトも言っております。
 これは、単なるヒュウマニズムや博愛主義からは、どうしても、乗り越えられない生き方であります。しかし、歴史上の数知れない弟子たちが、主イエスのこの言葉に生き、あるいは、殉教していったのであります。
 本日のみ言葉は、いと高き方の息子に私たちが成るための十字架におつきになる方のみ言葉であります。私たちは、うまの合う人もいれば、なかなか理解できない人もいる。
 憎しみが、なくそうとしても、自然とわき上がるのであります。
 けれども、主イエスは、どんな人に対しても、自分がしてもらいたいと思うところをしてあげなさいと、語られておられるのであります。これは、教会の中でも容易に起こることであります。むしろ、教会の中での方が、かえって、主イエスの教えを守ることが困難であることを、私たちは経験するのではないでしょうか。
 しかし、私たちは、十字架の主イエスによって、罪赦され、互いに愛し合う存在として交わるように、召されたのであります。無償の愛と言いましょうか、無償の赦しと言いましょうか、私たちは、何の見返りも期待せずに、相手に対して、よくしてあげ、赦し合わなければならないことを主は、弟子とされた私たちに今も求めておられるのであります。
 我が家に、昨年の正月に、私と息子が帰省している間に、15年間、家族の一員であった雑種の柴犬が死にました。この犬は、水俣教会の戸口にどなたかが、捨ておいて、私たちによって拾われた生後間もない犬でありましたが、まことに忠実な犬でありました。
 よく、散歩に、一家で連れ出したものですが、どんな犬にあっても吠えたりしない。むしろ、友達になろうとして、近寄り、しかし、どんな小さな犬にも、喧嘩では負けたのであります。いや、喧嘩をしようともしなかったのであります。ただ、賢い犬で、水俣教会で、クリスマスツリイを飾っていたライトが盗まれた晩には、まだ小犬であったのに一晩中吠えておりました。また、水俣から、焼津に転勤の折には、フェリー等を使って車に乗せて引っ越してきたのですが、駐車場などでは、自分が置き去りにされるのではないかと、危惧して、高速道路の駐車場では、必死についてこようとしておりました。
 そんな賢い犬でしたが、そのことを、叔父の牧師に話しますと、感心して、それこそ、教会の犬だねと、叔父の牧師は納得しておられました。
 私たちは、本日、本日主イエスが語っておられるような生き方をなかなかできないのですが、主イエスは、いと高き方の息子となるためには、行わなければならないと、今日も私たちに迫って来られるお方であります。
 亀井勝一郎氏は、主イエスについて、どうしてこんなに繊細な魂が生まれたのだろうかと、評論の中で書かれています。私たちにはできないが、その不可能事を可能に変えなければ、私たちは、主イエスの弟子であるとは言えないと、主は語っておられる。それで、不利益を被っても、「愛敵の器」として、歩むように、促し、私たち一人一人に、今も求めておられる。そのことを、銘記して、1週間の生活へと、ここから、送り出されていきましょう。アーメン。

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2013/06/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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