津田沼教会 牧師のメッセージ
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説教「あなたのまことに私を導いて下さい」(ヨハネ16:12-15)
ヨハネ福音書16:12-15、2013・05・26、三位一体主日(典礼色―白―)、イザヤ書6:1-8、ローマの信徒への手紙8:1-13

ヨハネによる福音書16:12-15
 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたは理解できない。しかし、その方、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

説教「あなたのまことに私を導いて下さい」(ヨハネ16:12-15)

 今日は「三位一体主日」です。「三位一体」とは、父なる神、そして、子なる神としてキリスト、そして、先週19日の「聖霊降臨祭」でお祝いしたわけですが、聖霊なる神、これら三つの神が、三つでありながら、なお一つの神であるということです。キリスト教の神はそういう神であるという教え、教理です。
 「三位一体主日」は、教会暦の中の一つの祝日ですが、イエスさまにまつわる出来事ではなく、キリスト教の教え、教理に基づく祝日である点で、特徴的です。
 この「三位一体の神」について、古代の神学者は、このように説明しました。「父なる神は我々の上にいます神、子なる神、キリストはわれわれと共にいます神、聖霊なる神は、われわれの内にいます神である」と。つまり、聖書の証しする神さまは、私たちを上から、横から、そして、内から、それこそ、あの手この手で、全面的に、力強く支えていてくださる、そういう神さまであるということです。これが「三位一体の神」です。
 この三位一体の神を信じるということは、この神に支配されることを喜んで受け入れているということです。そして、そうであればこそ、私たちは、本当に主体的人間として生きることができます。主体的な人間とは、しっかりした人間と言ってもよいでしょうか。あるいは、わが道を行く人です。
 わが道を行くとは、独善的に生きるということでは、もちろんありません。自分の思いつきで何でも実現しようとしたり、自分のわがままを押し通したりすることではありません。「腹の座った人」と言ったらいかがでしょうか。腹の底から落ち着いている人間として、自らの人生を歩いていく、そういう人です。
 そういう人は、たとえ誰が賛成しなくても、また多くの人が反対しても、「わたしはこのように生きる」と言って、本当に「個人的な人間」となるのです。「個人」、それは孤立した人間、孤独な人間ではありません。なぜなら、真に主体的な人間としての個人は、他人のため、他人と共に生きる、つまり、本当に社会的な人間でもあるのです。誰に反対されても、私はこのように生きるのだと言う人だけが、ほんとうに他人と共に生きることを真剣に考える人ではないでしょうか。
 私たちは、父なる神さまに感謝し、子なるキリストを信頼し、そして、聖霊なる神に導かれて生きる時、本当にしっかりした人間、腹の底から落ち着いている人間、主体的な個人になれるのです。
 今日の使徒書は、「ローマの信徒への手紙」の8章以下でした。そこは、パウロのペンテコステと言っても良い個所ですが、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と語り出しています。
 聖霊は結びつけるのです。父なる神と子なるキリストを結び付け、そして、神さまと私たちを、さらに私たち同士を結び付ける神なのです。つまり、聖霊とは愛なのです。聖霊を受ける時、聖霊に導かれる時、私たちは、愛する人間として他人と結びつく者となるのです。
 「結びつく」というのは、人間の隠された本質かもしれません。ちょうど「磁石」のように、人間は何かに結びつかずにはおれないということです。そして、正しいものに結びつかなければ、人間は、正しくないものに結びついてしまうのです。パウロは、コリントの教会の人たちに、「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう」と言っています。つまり、イエス・キリストの福音をまだ知らなかった時、世の動きのままに、しっかりした人間、腹の座った人としてではなく、同調的、迎合的、あるいは、反発的、対立的に、いい加減なものに結びついていっていたと言っているのです。
 聖霊は、私たちを父なる神と、そして、イエス・キリストと結び付けてくれます。そのようにして、私たちはしっかりした人間、腹の座った人間になれるのです。しっかりした人間とは、それは、十字架につけられ、死んで葬られ、そして、その死に打ち勝って復活し、昇天され、父なる神さまの右に座しておられるイエス・キリストから、人間として、問題、課題を抱えつつも、どのように生きるべきか、さらにそれをどのようにして乗り越えていくかということを教えられるのです。教えられるだけでなく、その力が与えられているのです。私たちが聖霊によって、三位一体の神と結び付けられるとき、私たちは人間らしい生き方を知るのみならず、そのように生きる力を与えられ、しっかりした人間、他人と共に、わが道を歩むところの、個人的であって、同時に社会的な人間になるのです。
 さて、聖霊降臨祭を祝うということは、神さまと共に生きるということであり、そして、私たちがお互いに「神の民」、「神の子」として共に生きるということです。だとしたら、今日の三位一体主日にあっても、神さまと、そして、お互いに、共に生きる幸いを味わい、その喜びを分かち合いたいものです。そこから、神と共に、そして、人と共に生きる、それぞれの日々の生活が始まっていきます。そして、それが伝道となるのです。
 望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださるように。
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2013/05/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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