津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主の約束を待つ喜び」(ルカ24:44-53)内海望牧師
ルカ24:44-53、2013・05・12、昇天主日(典礼色―白―)、使徒言行録1:1-11、エフェソの信徒への手紙1:15-23

ルカ24:44-53
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



説教「主の約束を待つ喜び」(ルカ24:44-53)内海望牧師

 昇天主日の聖書は何度読んでも心動かされます。新緑の美しい5月。野原には草花が咲き乱れ、思わず外に出て輝く太陽のもと深呼吸をしたくなるような季節です。このような時期に、イエスさまが、「手を上げて人々を祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」と言う昇天の場面を心に思い描くと、新鮮な空気が心いっぱいに広がって行くような気もちになります。イエスさまが手を上げ、祝福しながら、天に昇って行かれる一瞬一瞬、その祝福のみ手に包まれる範囲は広がり、ついには全世界を覆う祝福となるのです。本当に美しい風景です。そして、イエスさまは「栄光の座」にお着きになり、この世界は新しい時を歩み始めるのです。
 私たちは、イースター以来、毎週日曜ごとにヨハネの黙示録を読んで来ました。そこに描かれていたのは、新しい天と、新しい地が現れる救いの完成の日の様子でした。その時には、神さまが人と共に住み、私たちの目から涙をことごとく拭い去って下さいます。もはや、死も、悲しみも、嘆きも、労苦もない時なのです。その日を目指して歩み続けているのが私たちです。黙示録には、天にある新しいエルサレムに向かって歩む、私たちの讃美の声に呼応して、天使も合唱をしていると美しく描かれていました。
 いまイエスさまは「栄光のキリスト」として昇天されています。
 しかし、ここに至るまでにはイエスさまは苦難の道のりを歩んで来られたのです。46節では、イエスさまご自身、聖書を引用してその道のりを改めて弟子たちに語っていらっしゃいます。すなわち「メシア(キリスト)は苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」というものです。そうです。イエスさまは人々に嘲られ、十字架の痛みに耐えるという苦難の道を歩んで来られたのです。このイエスさまの歩みを、フィリピ書は「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執せず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と書いています(363ページ)。イエスさまは、人間に仕える僕として弟子たちの足を洗い、町や村を残らず回って人々に福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされたのです。イエスさまは罪と死に苦しむ人々の心を思いやり、はらわたがねじれるような痛みを持って一人一人に接して下さったと聖書は伝えてくれます。「へりくだって」という意味は、「どん底まで下って、私たち人間を下から支えて下さる」という意味です。
 しかし、そのイエスさまの愛に対する人間による報いは十字架の苦しみと死でした。人間は、なぜそんなことをしたのでしょうか。それは人間の傲慢、妬み、虚栄心が行った業に他なりません。私たち人間は、12弟子たちと同じように、いつも「誰が偉いか」という、のです。私たちは常識がありますから、そのような感情は表に出しませんが、心の中には徹底的に仕える生き方をなさる時、人々はひた隠しにしていた自分たちの罪の姿を暴かれてしまうのです。私たちは皆自分を高くするファリサイ人なのです。だから、イエスさまのような純粋に僕としての生き方をする方がいると困るのです。
 人々は、イエスさまの前に打ち砕かれ、悔い改めることも出来ました。しかし、彼らは居直り、イエスさまを亡き者とするため十字架につけ、殺してしまったのです。
 しかし、それでもイエスさまは「父よ、彼らを赦して下さい」という祈りを捧げつつ息を引き取られました。愛の極みということが出来るでしょう。
 このように、イエスさまは、人間のあらゆる苦しみ痛みを経験され、人間以下のところまで下って下さった方でしたが、神さまは、このイエスさまを今、「高く引き上げあらゆる名にまさる名」をお与えになり、栄光の座につけて下さったのです。

 ところで、今日の昇天の記事は、私たちに決定的な時を示します。ヘブライ人への手紙1章3節によると、イエスさまは「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」と昇天の記事を違った角度から語っています(401ページ)。「人々の罪を清められた後、天に昇られた」のです。
 イエスさまは十字架上で『「成し遂げられた」と言って頭を垂れて息を引き取られた。』のですが(ヨハネ19:30)、まさにその時、世界は、新しい時を歩み始めたのです。イエスさまが息を引き取られた時、この世界は清められたのです。救いの御業は成し遂げられたのです。まだ完成の時には至っていませんが、イエスさまの十字架の贖いにより、既に決定的な転換がこの世界に起こったのです。
 この「既に」と「まだ」という時の間を生きるのが私たちなのです。しかも、この福音は一部の信心深い者たちだけにではなく「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と聖書には書かれています。イエスさまがみ手を上げられた時、祝福は全世界に及んだのです。
 これは大事な点だと思います。ともすれば、私たちは神さまの恵みを独占しているかのような気持ちになります。確かに、私たちは罪の赦しの恵みに与りました。しかし、これは「すべての人々に与えられた恵み」なのであって、私たちは、この罪人の罪を赦し、清めて下さるイエスさまの十字架の恵みを信じることによってのみ赦しの喜びが与えられるのです。決して、私たちが他の人々より信心深いとか、道徳的に優れているから恵みが与えられたというのではありません。私たちは「罪赦された罪人」なのです。正真正銘の罪人です。その正真正銘の罪人が、確かに赦しの恵みに与っているのです!
 私たちは、時々戸惑うことがあります。「本当に私のような者が赦されてよいのだろうか」と自問することがあります。ローマ書やガラテヤ書、コリントを読むと驚くような出来事が書かれています。それは、教会内で「裁き合うこと」が常にあったという事実です。「君は間違った信仰を持っている」と教会員同士、お互い裁き合っているのです。パウロは、その度に、「キリストはその間違った兄弟のためにも死んでくださったのです。」と悲しみのうちに言わなければなりませんでした。これが、ともすれば、私たちが理想化してしまう初代教会の現実であったのです。しかし、振り返ってみると、これが私たちの現実であることも認めなければなりません。もっと言えば「私の現実」なのです。先ほども述べましたように、私たちの心には傲慢、ねたみ、虚栄心がいつも渦巻いているのです。これを否定することは出来ません。「私は、本当に赦されてよいのだろうか」と自問せざるを得ない所以です。
 しかし、イエスさまは断固として、「すべての人々に罪の赦しが与えられる。私がその救いの業を十字架において成し遂げたのだ」と宣言されるのです。だから、ためらわず、大胆に、喜びを持ってこの恵みに身を投げたいと思います。私たちの罪は、私たちの贖罪の業によって贖えるものではありません。「罪を償う」と簡単に言いますが、「取り返しのつかない罪」という言葉は真実です。しかし、イエスさまは断固として、「私が君の罪を贖うために死んだのだ。私の愛を信じなさい」とおっしゃるのです。このイエスさまのみ言葉によって、私たちも死から復活することが出来るのです。私たちにも「新しく生きる力」が与えられるのです。イエスさまが手を上げて祝福しながら天に昇って行かれる時、私たちにも、その祝福に包まれ、新しいいのち、復活の命が与えられたことを確信することが出来ます。そして、私たちには、この祝福が必要なのです。これだけが頼りなのです。毎週の礼拝において、祝福を受ける時、私たちの心には大きな安らぎが与えられます。
 ですから、今、イエスさまは弟子たちから離れて天に上げられたのですが、弟子たちは、悲しむのでなく、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神をほめたたえる」日々を送ることが出来たのです。先週は、ヨハネ14章が日課で与えられました。イエスさまが十字架につかれる直前、最後の晩餐の時、弟子たちの足を洗い、別れの説教をなさる場所でした。その時、弟子たちは「心を騒がせ」、不安に満ちていました。しかし、今日の弟子たちは違っていました。罪の赦しを与えられ、新しいいのちに生きる弟子たちは、「世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいる」と約束されたイエスさまのみ言葉を信じ、完成の時を信じて喜びを持って待つことが出来る者となったのです。
 現代は、「待つことが出来ない時代」、あるいは携帯電話を持つことによって「待つ必要がない時代」と言われます。私たちは「待つ」ことが出来なくなっています。
 「待つ」ということは、自分の心から「我」を取り去って「開(空)けておくこと」と言ってよいでしょう。今日の日課である使徒言行録1章4節で、イエスさまは「父の約束されたものを待ちなさい」と「待つこと」を命じていらっしゃいます。7節には「父がお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」ともおっしゃっています。「信じて、心を開いて待つ」。これは、心に祈りの水路を開けておくと言うことであります。イザヤ書30章15節には「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力がある」とあります。これが「祈ること」「待つこと」ではないでしょうか。弟子たちは、約束を信じて待つ喜びを経験したのです。私たちも、「み国を来たらせたまえ」と祈りながら、喜びのうちに落ち着いた静かな心を持って日々をしっかりと生きて行きたいと思います。
 








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2013/05/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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