津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主はよみがえられた、ハレルヤ」(ルカ24:1-12)
ルカ24:1-12、2013・03・31、復活祭(典礼色―白―聖餐式)、出エジプト記15:1-11、コリントの信徒への手紙一15:21-28

ルカによる福音書24:1-12
 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体は見当たらなかった。そのために途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。





説教「主はよみがえられた、ハレルヤ」(ルカ24:1-13)

私たちは、先週、3月24日、枝の主日を迎え、受難週を過ごしました。主イエスが、12弟子の一人、イスカリオテのユダによって、敵どもに渡され、ピラトの判決のもとに、十字架刑に二人の犯罪人と共に十字架に付けられたのであります。
ルカ福音書によれば、遠くから、ガリラヤから同行してきた女の人たちも、主の納められる新しく岩を掘られた墓穴を見つめていたとあります。金の夕方までに彼女たちは、香料を買い求めたのでありましょう。金の日没から土の日没まで、安息日を守り、安息日からの1日目、すなわち、週の初め、日曜日の朝早くの深みに、マグダラのマリアたちは、香料を携えて、その墓に赴いたのであります。墓の入口をふさいでいた岩は大きかったので、どうしたものかと、彼女たちは、考えながらも急いだでありましょう。
ところが、石は既に転がしてあって、中にはいって見ると、主イエスの遺体を見出さなかったのであります。次に起こったことには、彼女たちが途方にくれていると、二人の人がまばゆい衣を着てそばに立ったのであります。彼女たちは恐れて、地に顔をつけたのでありますが、二人の人、天使は言うのであります。「なぜ、生きておられる方を死人たちと共に、探すのか。あの方は、ここにはおられない、ところがどっこい起き上がらされたのだ。まだ、ガリラヤにおられたときに、いわれた言葉を思い起こしなさい。すなわち、『人の子は罪人たちの手、ローマ人や、エルサレムのユダヤ人の指導者たちの手に渡され、十字架に付けられ、三日目に起き上がることになっている』と言われたではないか」と。
そこで、彼女たちは、主イエスの言葉を思い起こします。そして、引き返して11人と他の使徒たちに、起こったことすべてを伝えます。しかし、彼らは、女たちの言う言葉がたわ言、ナンセンスに見えて、信じないでいた。で、ペトロは、立ち上がり、墓へと走った。  
そして、中をのぞくと、亜麻布、リネンの包帯どもだけを見出し、驚きながら、自分の家へと立ち去ったというのであります。
復活という出来事は、私たちの理解、理性では信じがたいことであります。そして、イースターの本日の記事は、天使たちの言葉と、空虚な墓というだけの記事で終わっています。これから、続く主イエスの復活の物語の序曲に過ぎないのであります。その女性たちの名が記されていますが、マグダラのマリアだけは、4福音書の復活の出来事に必ず出てまいります。
彼女は、七つの悪霊に取り付かれていた女性でしたが、主イエスによって、癒された女性でした。せめて先生の遺体に香料を塗り、丁重に墓に納めたいと思っていち早く週の初めの朝早くやって来たのですが、ルカによれば、彼女は復活の主ご自身には会っていないのであります。
パウロの、本日第2朗読で読まれたコリント一の15章によれば、主イエスと出会った証人たちが記されていますが、空虚な墓については触れていません。しかし、ルカ福音書は空虚な墓について記しています。見ないで信じるものは幸いであると、ヨハネ福音書では、主がトマスに語っていますが、復活とは、旧約聖書によって、また、新約聖書においては、主イエスの預言・約束として何度も明記されている出来事なのであります。もし、復活がなければ、飲み食いに耽ろう。明日は滅びる身なのだからということになります。しかし、単なる死後の命ということでなく、霊的体をもって復活することをパウロも明言し空虚な墓もそれを表明しているのです。復活という聖書が約束していた出来事を、私たちも信じることが許されています。また、ここから、新しい人生の歩みを共に始めてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなた方の心と思いとを守るように。



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2013/03/31(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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