津田沼教会 牧師のメッセージ
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「受難から復活へ」(ルカ19:28-48)
ルカ19:28-40、2013・03・24、枝の主日(典礼色―紫―聖餐式)、ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

ルカによる福音書19:28-40
 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、
 祝福があるように。
 天には平和、
 いと高きところには栄光。」
 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」
 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・・。しかし今は、それがお前、には見えない。やがて時が来て、敵が周りにほう塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。
 『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

説教「受難から復活へ」(ルカ19:28-48)
 枝の主日となりました。ここからの1週間が受難の1週間であって、この週の金曜日に主イエスは、十字架に掛けられたと考えられているのであります。共観福音書はいずれも、また、時期の設定は違いますが、ヨハネ福音書も、このエルサレム入城の記事を記録しているのであります。
 そして、ルーテル教会では、この記事を、長さは違いますが、教会暦の一年の初めの日曜日、すなわち、12月始めころのアドベント第1主日と、そして、本日の枝の主日との大事な節目に2回にわたって読むことになっているのであります。こういう個所は他になく、ここにルーテル教会の特徴があるとも言えるのではないでしょうか。
 四旬節の最後の日曜日に、私たちは再び、エルサレム入城のルカの記事を、19:28-48と記事を長くして読むのであります。
 エルサレム入城というと勝利の王としての入城ということがよく言われるのでありますが、エルサレムとその住民、特にその宗教的指導者たちによって、拒まれ、否認される王としての、外観としては、そのような入城であります。
 今日のルカ福音書の筋を追ってみましょう。「ムナ」のたとえを語られた後、主イエスは先頭に立って、エルサレムへ上って行かれるのであります。思い返せば、ルカ福音書9:51以下は、エルサレムを目指しての「旅空を歩むイエス」でありました。その旅もいよいよ、終わろうとしているのであります。
 私も、聖地旅行に行った折、最後の自由に過ごせる日に、エルサレムの市街を回り、東に位置するオリーブ山に登ってみました。エルサレム入城の時の道はどこだったのだろうと、思い巡らしながら、山頂近くまで行って、市街を見下ろしながら帰ってきました。
 主イエスは、来るべき方、王として入城するために、ベトファゲ、ベタニアの近くまで来たとき、二人の弟子を遣わして、命じます。向こうの村へ行きなさい。そうすれば、まだ誰も人を乗せたことのない子ろばがつながれているのを見出す。それをほどいて、連れて来なさい。もし誰かが、子ろばの綱をほどいたりしてどうするつもりかと訊かれたら、「その主が必要とされています」と答えなさいと。
 二人が行ってみると、主が言われたとおりに見出した。で、子ろばをほどいていると、そんなことをしてどうするつもりかと、その持ち主たちに言われたので、「その主がこれを必要とされています」と答え、二人は、子ろばを連れて来ます。そして、自分たちの上着をその上に敷き、その上に主イエスをお乗せします。本日は、枝の主日と言われますが、ルカでは、枝を持ってくる人々は出て来ません。大勢の弟子たちが、その主の行かれる前に、自分たちの服を広げるのです。
 主イエスは、本日の第1朗読であるゼカリヤ書9:9-10を念頭に置いていたのかもしれません。しかし、勝利の主というよりも、御自身は、十字架につく者として、悲壮な決意で、本日の讃美歌にもありましたように、うなだれながら、神殿に入って行かれたのではないでしょうか。そして、エルサレムが見えてくると、そのために、泣いて言われるのであります。お前のために私は何度、お前が平和の道を知っていることを望んだであろう。しかし、今はそれは、お前から隠されている。そして、日々が来る、敵どもが、お前に向けて柵を放り投げ、お前をあらゆる方向から攻めるであろう。そして、お前も、お前の中にいる子たちも、地にたたきつけよう。神の訪れの時をお前たちは知らなかったからであると。
 ルカ福音書は紀元後70年よりも後に書かれたと考えられています。しかし、ローマ軍によるエルサレム陥落の出来事に従って、ルカがこの記事を書き加えたと考えるのは早計でしょう。主イエスは、エルサレムがやがて敵軍に壊滅されることを予知できたでありましょう。
 それから、エルサレム入城の場面は、記されず、既に神殿の境内に入っていて、犠牲の動物などを売る者たちを追い出して、「私の家は祈りの家であるであろう」とあるのに、お前たちは、強盗の隠れ家にしていると非難されるのであります。そして、日中は、神殿の境内で教えられたが、エルサレムの指導者たちはどうすることもできなかった。なぜなら、民衆は、彼に聞くことに夢中になっていたからだと、本日の記事、出来事は締めくくられているのであります。
 私たちは、本日の出来事、2000年近くも前のエルサレム入城の主イエスを想い起こしながら、今日から、受難週の歩みを始めます。十字架の死を承知しながら、主イエスは、エルサレムに入城なさったのであります。そして、今週の受難の出来事の後に、勝利の復活が待っているのであります。受難から復活へと続く1週間を、1日1日、思い起こしながら、新しい生活を始めようではありませんか。アーメン。

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2013/03/24(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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