津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリストの裁きと赦し」(ルカ20:9-19)内海望牧師
ルカ20:9-19、2013・03・17、四旬節第5主日(典礼色―紫―)、イザヤ書43:16-28、フィリピの信徒への手紙3:5-11

ルカによる福音書20:9-19
 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々の者になる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。
「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。』
 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。


説教「キリストの裁きと赦し」(ルカ20:9-19)内海望牧師

 教会暦、カレンダーを与えられているということは、ある出来事に私たちの心を集中させ、心に緊張を呼び起こさせます。四旬節というのは、わたしたちの心をキリストの十字架に集中させます。時の流れに身を任せるような生活でなく、しっかり歩調を整えて一歩一歩、キリストの十字架に向かって歩む日々です。私どもとは比較にならない真剣さで十字架の死に向かって歩を進めていらっしゃるイエスさまの姿を辿る時です。
 イエスさまは、神さまの愛の忍耐について人々に向かって語っていらっしゃいます。神さまは、私たち人間のために「良いぶどう園」を用意して下さいました。そこで香り高いぶどうが実るのを楽しみにしていらっしゃったのです。この世界は神さまの喜びの場所であったのです。ところが、人間はそのぶどう園を自分の欲望を満たすためだけに用いて、神さまへの感謝など一向にしません。反対に、ぶどう園を神さまから奪い取ろうとします。世界を支配する者になりたいのです。これが人間の原罪です。アダムとイブは「神さまのようになりたい一心で」食べてはいけないと厳しく禁じられていた「善悪を知る木」の実を食べてしまったのです。今日のたとえはそれを指しています。ですから、神さまからの僕を袋叩きにし、追い返してしまいます。しかし、神さまは決して諦めることなく、何度も何度も僕を送ります。僕とは預言者のことです。旧約聖書を読むといかに神さまが真剣に悔い改めを迫っているかが分かります。ある時は「君たちを滅ぼす」という厳しい言葉をもって、またある時は「お前たちが死んでよかろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。立ち帰って生きよ」と切々と諭されます。神さまは人間の罪を見逃すことがありません。「罪を犯した者が罰せられる。」ということは当然のことです。神さまの前では、私たちには逃げ場はありません。恐ろしい裁きが待っているだけです。しかし、この神さまは同時に人間を極みまで愛する方なのです。「決して諦めないで」預言者を送り続ける神さまの心の痛みがここにはあります。旧約聖書は、神さまの忍耐の歴史といってよいでしょう。決して諦めない愛。
 しかし、民は、一時的に悔い改めることがあっても、すぐに罪の世界に戻ってしまいます。そこでついに、神さまは最後の手段を取られます。愛する息子イエスさまの派遣です。「愛する子」という言葉は「身を切られる思いで」という意味だと北森先生は注釈されていました。そうでしょう。わが子を最も危険なところに派遣するのですから、その痛みは推察出来ます。
 しかし、農夫たちは、神さまの愛子イエスさまを「ぶどう園の外に放り出して殺してしまった」のです。「園の外」つまり「城壁の外」に捨てられるということは民の交わりから捨てられるということです。ゴルゴタがそこです。ここで、人間の罪は頂点に達します。世界の創造主であり、主である神さまをこの世から追い出し、世界の主人になったと凱歌をあげるのです。「相続財産は我々のものになる」という勝ち誇った言葉の中に人間の傲慢の極致を見ます。
 イエスさまは、このような仕打ちに対して、「ぶどう園の主人は農夫たちを殺し、他の者に与えるに違いない」とおっしゃって、たとえを打ち切られます。更に、「園の外に捨てられたイエスさまは、新しい民を造るための家の隅の親石となる。この石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」と新しい創造を予感させる言葉をおっしゃるのです。しかし、その前に罪人は徹底的に打ち砕かれるのです。これは、私たちの予想を越えた急転直下の結末です。私たちは「どうして、イエスさまがこのような恐ろしいことをおっしゃるのだ」と唖然とします。
 しかし、実は、「罪を犯した者は死ぬ」という結果は当然なのです。私たちはイエスさまの愛に馴れ親しみ過ぎて、それに甘え、罪の恐ろしさを軽く見ているのです。神さまの寛容と忍耐を良いことにして、私たちは神さまの裁きを侮っているのではないでしょうか。パウロは「思い違いをしてはいけません。神は、侮られることはありません」とガラテヤの教会に警告を発しています。私たちは、神さまの愛に甘えて、罪の深さ、恐ろしさをごまかしているのです。このような時、私たちは決して恵みの大きさを理解できません。罪を小さくしていますから、恵みも小さくなってしまっているのです。小さな罪と小さな恵みの中にごまかして生きているのです。十字架の愛を小さくしてしまっています。この結末が私たちにとって予想外だとしたら、それは私たちのこの「罪を縮小する」という罪が原因です。イエスさまは、はっきりと「君たちは死すべき罪人だ」とおっしゃっているのです。
 イエスさまのたとえを聞いて、律法学者や祭司長たちは、イエスさまが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気付いた、と書かれています。どういうことでしょうか。
 ドストエフスキーは、「カラマーゾフの兄弟」という小説の中で、イエスさまが人々の祈りに答えて15世紀に、再びこの世に来られたという設定で物語を書いています。ところが、人間は、この時もまた同じようにイエスさまを抹殺しようとするというのです。ここにドフトエフスキーの人間洞察の深さがあります。全く無私の思いで人々を愛し抜くイエスさまが来られたら、私たちの偽善、隠された罪すべて明らかになってしまうからです。
 律法学者、祭司長は宗教家です。僧正もおなじです。自分は正しく生きている、間違っている人(異端)は罰さなければならないと人を裁く人々に対するイエスさまのとどめの一撃のような気がします。「裁きは神の家から始まる」(ペトロ一4:17)と書かれている通りです。しかし、ここで悲劇的なのは、イエスさまを抹殺しようとしている僧正自身は正しいことをしていると考えている点にあります。黒い悪魔、白い悪魔がいるとルターは言いました。黒い悪魔の誘惑はいかにも悪魔らしい誘惑をするのですぐ分かるし、戦うことが出来る、しかし、白い悪魔は私たちをだまし、良いことをしていると思わせて、私たちを自分のいいように操り、陥れるのだというのです。
 私たちが真に恐れなければならないのはこの白い悪魔です。律法学者、祭司長は、この罠に落ちていたのです。それを指摘されたと直感的に悟ったのでしょう。それで、殺意を抱いたのです。

 さて、ここで今、イエスさまは裁き主として立っていらっしゃいます。確かに、イエスさまは裁きを行う方でもあるのです。「私たちは皆、キリストの裁きの前に立ち」(コリント二5:10)と最後の審判についてパウロは語っています。あるいはマタイ25章の有名なたとえがあります。最後の審判の時、人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて栄光の座につかれる。そして、羊を右に、山羊を左にと分けられるのです。右側に人々は「祝福された人々」です。左側の人々は「呪われた人々」です。私たちは、どちら側に並ばされるのでしょうか。最後の審判の厳しさに思わず襟を正す思いになります。
ところが、私たちはイエスさまの十字架の出来事において衝撃的な事実に出会います。イエスさまの右と左に二人の強盗が一緒に十字架につけられたとマルコは伝えます。このようにしてイエスさまは「犯罪人の一人に数えられた」と言うのです(マルコ15:28)。イエスさまは罪人の側、左側にいらっしゃるのです。さらに、イエスさまは、犯罪人の一人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」とまで断言されているのです。そうなのです。「罪の赦しの洗礼」を私たちと共に受けられ、私たち罪人と共に生きることを明らかにされたイエスさまは、十字架においても罪人の列に立って下さったのです。もし、予想外の出来事が起こったというならまさにこの事実ではないでしょうか。「裁き主イエスさま」が「裁かれる側」に立っていらっしゃるのです。そして、その死によって左側に立たざるを得ない私たちの罪を赦して下さっているのです。「父よ、彼らをお赦し下さい」という十字架上のイエスさまの祈りが世界を包んでいるのです。
 今日は、この私たち罪人の只中に立って私たちのために祈って下さるイエスさまに心から感謝したいと思います。考えて見れば、律法学者、祭司長はイエスさまのたとえで、自分たちの罪をはっきり認めたのです。しかし、決してそれを告白しようとはせず居直ったのです。バッハのマタイ受難曲を毎日聞いていますが、イエスさまが最後の晩餐の折、「あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている」とおっしゃったとき、「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と言い始めた」という箇所があります(26章21節)。しかし、その聖書の言葉に続けてバッハは「それは私です」「私こそ罪と縄目に縛られ、捨てられる者です」というコラールを付け加えています。これはバッハ自身の告白でしょう。律法学者、祭司長もそうすればよかったのです。
 前にも紹介しましたが、ルターが「大胆に本物の罪人になれ。そしてもっと大胆に本物の恵みに与れ」と言ったのは、このことを言っているのです。この時、キリストの恵みの計り知れない大きさを経験することが出来るでしょう。何ものにも優る喜びを経験することが出来るでしょう。イエスさまは、私たちが悔い改めたから赦して下さったのではありません。悔い改めない罪人のために命を捨てて下さったのです。赦しの恵みの中で、真実の悔い改めが起こってくるのです。大胆に罪人となり、本物の赦しの恵みに与りましょう。そして、復活の喜びを共にしましょう。新しい時の始まりです。イースターは間近です。
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2013/03/17(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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