津田沼教会 牧師のメッセージ
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「エルサレムへの旅の終りに」(ルカ18:31-43)
ルカ18:31-43、2013・02・24、四旬節第2主日(典礼色―紫―)、エレミヤ書26:7-19、フィリピの信徒への手紙3:17-4:1

ルカによる福音書18:31-43
 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。


「エルサレムへの旅の終わりに」(ルカ18:31-43)

皆さん、おはようございます。説教交換で、市川教会に招かれましたことを心から感謝しています。今、私は58歳に近づいていますが、今から25年前のこの頃、3月下旬に、初めて聖地旅行、海外旅行に行くことができました。「出エジプトの旅」というテーマで、エジプトからバスで出エジプトの旅をし、シナイ山にも登り、15日間の旅行を終えました。市川教会の金子さんや安芸さんともご一緒させていただき、最後はガリラヤからエルサレムという旅程でした。
ルカ福音書は特に9:51から、エルサレムを目指しての「旅空を歩むイエス」をテーマとしています。四旬節第2主日の本日は、主イエスがまもなく、エルサレムに入る途上での出来事であります。主は、12弟子たちを、受け入れて、異邦人に人の子、御自分が渡され、あざけられ、虐待されて、彼らは鞭打った後彼を殺すが、三日目に人の子は起き上がる、復活すると、告白なさったのであります。しかし、弟子たちは、その言葉の意味が隠されていて、まだ、啓示に与っていなかったので、何のことか何も理解できなかったのであります。
それから、一行は、エリコの町に近づきます。本日の前の部分では金持ちの議員が、神の国よりも、この世の富を手放すことができない記事が載っています。しかし、本日の出来事においては、道端で座って、物乞いをしていた、恐らく、バルティロマイが、主イエスの群衆が通り過ぎるのを、人々に確かめて、「イエスさま、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と必死で忍耐強く訴えるのであります。道の傍らで、頼りなく物乞いをしていたこの盲人が、「主よ憐れんでください」と、粘り続け、主は立ち止まり、自分のところに連れて来るようにお命じになります。
近づくと、主は「私に何をしてほしいのか」とお尋ねになります。バルテロマイは、「主よ、見えるようになりたいのです」と申し出ます。私たちの毎週の礼拝において、キリエを唱えますが、「主よ、憐れんで下さい」、「キリエ・エレーソン」というのは、この盲人の言葉であります。
私たちは、毎週の礼拝に会衆一同集って、主に対して、「私を憐れんで下さい」と、冀うのであります。特に、四旬節のこの時期に、今日の個所は本当に相応しい個所ではないでしょうか。
私たちは1週間の間にも多くの罪を犯し、それを、主に憐れんで頂いて、罪赦される者とされるのであります。この盲人は、自分が見えるようになりたいのですと率直に主に告白し、懇願するのであります。これは、私たち信者・求道者の生活の偽らざる現実の姿ではないでしょうか。
「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」とは、盲人のバルティマイオスの根気強い信仰の発露であります。私たちも、四旬節、主の十字架の道行きを覚えて、特にこの時期、慎ましく生活し、神が見えるような、あるいは、あるいは、神に向かって叫び続ける毎日を送りたいものであります。
12弟子たちは、主の受難・復活予告が、この時まだ何も分からず、隠されていましたけれども、それが実現した後、主の言葉の真意を見出し、旧約聖書が、十字架にかかるメシア、救い主、イエス・キリストを預言していることを、啓示によって知ることができたのであります。
私たちも、現実の荒波にのみ込まれて、主イエスが、十字架にかかって、もろもろの罪から解き放たれることをしばしば、忘れ、恐れや疑い、不信仰に、呑み込まれそうになりますが、本日の盲人のように、主よ見えるようにならせて下さいと絶えず呼び求める者にさせて頂きたい者であります。アーメン。






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2013/02/24(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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