津田沼教会 牧師のメッセージ
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「彼の最期についての話し合い」(ルカ9:28-36)
ルカ9:28-36、2013・02・10
変容主日(顕現節最終)白。申34:1-12、2コリ4:1-6

説教「彼の最期についての話し合い」(ルカ9:28-36)

皆さん、おはようございます。いよいよ、本日をもって、顕現説を終える変容主日を今日は迎えています。顕現主日、主の洗礼日と同じように、先週までの緑から、白に教会で用います色も変わっています。これは、神さまを表す色であり、主の変容、あるいは変貌主日というのに、ふさわしい主の衣が真っ白に輝いたという本日の出来事そのものにもあっている色であります。顕現節は、特に異邦人である世界のすみずみにまでいたるわたしたちに、救い主であるキリストがあらわされ、そのご正体が明らかにされることを覚えるときでありますが、本日のルカ福音書9:28-36は、まことにそれを考えるのにふさわしい出来事が記されていると思います。本日のか所で起こった出来事について、しばらくご一緒に考えていきましょう。
 それは、ペトロが、主イエスを「神からのキリスト」すなわち、メシアですと告白をし、それから、主がご自分の受難予告をなされ、弟子たる者はそれぞれ自分の十字架を背負って、主に従っていかなければならないことをおときになり、それらの言葉から八日ほどたったころにおこった出来事で、主は、祈るために、特にペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人だけを連れて山におのぼりになったのであります。それがどこの山であったかは記されていません。ナザレとナインの間のタボル山であったという伝説もありましたが、当時はその山の上には要塞もあったともいわれますし、八日もかかって上られたということですから、フィリポ・カイザリヤからさらに北のヘルモン山という3000メートル近くの山であったかもしれません。特に異邦人のローマ世界に住む人々に向かって書いたであろうルカにとって、そのような地理的な特定は大事なことではなかったでありましょう。
 そして、成ったことには、主イエスが祈っている間に、その顔の外観が変わり、その衣は光り、輝いていたのであります。そして、二人の男が現れ、主イエスと何か論じ合い、あるいは相談しあっていたのであります。それは、モーセとエリヤでありました。旧約聖書の律法と預言者を代表するふたりとも、言えましょう。旧約聖書では、やがて、モーセのような預言者が現れると申命記18:15などには記されていますし、当時、イエスの時代には、メシアの来る前にエリヤが先駆者として再び来るという期待がありました。
 この出来事は、おそらく夜に起きた出来事でありましょう。ペトロたちは眠さで重くなっている目をあげて、よくみると、主イエスがそのふたりと、主がまもなくエルサレムで遂げようとしている最期のことを語り合っていたのであります。この「最期」という言葉は、エクソドスという言葉で、出エジプトという場合に使われる言葉で、脱出とか、旅立ちという意味であり、主イエスの死と復活と父のもとへの昇天を含めた意味が込められています。罪と死というエジプトの世界から、わたしたちを主が解き放たれることについて、語り合われていたのであります。どうしてそれが、モーセとエリヤだと彼らはわかったのでありましょうか。まして、夜のことであればなおさら不思議なことです。しかし、それは、神によって啓示されたことであり、わたしたちは、信仰の目を持ってこのような出来事をそのままに受け取ることが大事ではないでしょうか。
 しばらくすると、主イエスから彼らが離されていくことがおこり、ペトロは思わずこう言いました。「わたしたちがここにいるのはすばらしいことです、わたしたちは三つの仮小屋を作りましょう。ひとつはあなたに、ひとつは、モーセに、そしてさらにひとつは、えりやのために」と。彼は何を言っているのか、自分でもわからなかったのであると書かれています。それは、スコトの祭りといって、もともとは、収穫感謝の祭りから、イエスの時代には、出エジプトの出来事を記念する、エルサレム巡礼の三大祭のひとつとなっていた祭りの祝い方をペトロは、思わず口にして、モーセ、エリヤと主イエスがそこにおられるすばらしさをひきとどめたいと、ペトロは思ったのかもしれません。しかし、そのとき、雲が起こって彼らをおおい、雲の中に彼らが入っていくので、彼らは恐れました。モーセとエリヤが雲の中に入っていったのを見て、恐れたとも読めます。すると、雲の中から声が成り、「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」という声が聞かれたのであります。ペトロは、こののちも、主を否認し、弟子たちは十字架のときに主を見捨てて離散するということが起こっていますから、この雲からの声が何を意味するのかは、主の語復活後、あるいは聖霊降臨を経て、さらには、多くの失敗や困難、試練の後に、このときの出来事の意味、天からの声の意味がようやくわかっていけたのに違いありません。
 現代を生きているわたしたちはどうでしょうか。多くの人が「私こそは真理を語っている」「正論は、わたしのほうにある」と様々に世の知恵者は語り、また、特に日本では宗教のようなものは、すみに追いやられがちであります。けれども、わたしたちのよって立つべきお方は、キリストお一人なのであります。モーセもエリヤも、主イエスを指差すために、使命を与えられた、いわば、キリストの証人であり、洗礼者ヨハネともどもに、主の前に備えをするもの、あるいは、救い主の前触れにすぎないのであります。
 現代は情報が行きかい、非常に便利な文化生活を、私たちは営んでいます。しかし、それを誤用したり、盲信しては危ういのであります。わたしたち、人類に与えられている救い主は、聖書によれば、主イエス・キリストをおいてほかにはないのであります。死と罪というエジプトから脱出し、約束の地へ、神の国の民として生きるように、わたしたちは、本日の出来事を通して招かれているのであります。主イエスの洗礼のときに聞かれた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声は、本日の変容の日の出来事において、私たちに向けての声となったのであります。主イエスこそ、メシアであり、「選ばれた方」十字架の苦難を通してわたしたちをお救いになる、しもべとしての道を歩まれる救い主であります。多くのすばらしい賜物を持った方々が確かに、わたしたちの周りにはいますけれども、わたしたちの罪と死から解き放つことのできるお方は、主イエスをおいて、他にはわたしたちには与えられていないのであります。この主イエスを仰ぎながら、どのような困難をも、あるいは、喜びをも、わたしたちは感謝をもって受けとめ、歩んでいきましょう。
人知ではとうていはかりしることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。 

 
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2013/02/10(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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