津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「人知を超える神の愛」(ルカ4:16-32)内海望牧師
ルカ4:16-32、2013・01・20、顕現節第3主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書1:4-8、コリントの信徒への手紙一12:1-11

ルカによる福音書4:16-32
 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕われている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げるためである。」
 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆がイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。




 説教「人知を超える神の愛」(ルカ4:16-32)内海望牧師
 イエスさまは、ガリラヤのカファルナウムを中心に「霊の力に満たされて」宣教活動を始められました。そして今日の日課にはふるさとであるナザレに帰って来られた時の出来事が記されています。
 イエスさまは会堂でイザヤ書61章を朗読され、会衆に「この聖書の言葉は今日、あなた方が耳にした時、実現した」と力強く語られました。今日、待ちに待った救いの時が到来したという宣言です。ここでクリスマスの意味がはっきりと分かります。イエスさまがこの世に来られたということは、救いの時が始まったという出来事であったのです。まさにイエスさまの真の姿の顕現です。
 「今日」という言葉に力を感じます。
 実はルカは「今日」という言葉を好んで用いています。少し煩雑になりますが、そのうち今日の日課と同じ意味の4か所を取り上げてみ言葉の意味を深めたいと思います。
 初めは、良くご存じの2章11節です。天使から羊飼いたちが「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げられた時、羊飼いたちは急いで行って「飼い葉桶」に寝かされている乳飲み子に出会いました。彼らは「救い主の到来というのに、その場所がみすぼらしい飼い葉桶であって、どうして宮殿ではないのだろう」など理屈をこねず、素直にみ言葉に信頼し、救い主が来られたことに感謝し、賛美しつつ帰って行きました。このみ言葉への大胆な信頼こそ私たちが羊飼いから学ぶべき大切な心です。これは決して軽率な態度ではありません。
 次に、19章1節以下です。ここにはイエスさまと徴税人ザアカイとの出会いの出来事が記されています。5節、9節に「今日」という言葉が記されていますが、9節の「今日、救いがこの家を訪れた」とイエスさまがおっしゃった言葉が印象的です。この時代のイスラエルにおける徴税人とは、当時イスラエルを統治していた古代ローマ帝国から定められていた税金徴収の下請けをしていた人々です。これは請負制度になっていて、いちばん高く請け負った者が指名されるのです。ですから、出資金を回収するために、規定より高く取ることが多かったのです。またローマ帝国という権力を後ろ盾にしていますから、かなり高圧的に徴収できたのです。西ローマ帝国でも400年以上続きましたし、東ローマ帝国は1453年まで存続したのですから、古代ローマ帝国は秩序は保たれていたでしょう。徴税人という職業が悪いというわけでなく、職業を自分の私利私欲のために利用する人物が多いため、また占領国の下請けという面もあって、ユダヤ人の間では、「罪人」と呼ばれ嫌悪の的となっていました。ですから、この個所でも誰も背の低いザアカイのために道を譲ろうとはしませんでした。しかし、どうしてもイエスさまと出会いたいという強い願いを持っていたザアカイは桑の木に登ってイエスさまを待っていたのです。その時、イエスさまは上を見上げ、ザアカイに向かって、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃったのです。ザアカイは喜んでイエスさまを迎えました。群衆は、「あの人は罪深い男の所へ行って宿を取った」と言って非難しました。
 ザアカイがどうしてもイエスさまにお会いしたいと願った心のうちには、今の自分の生き方に対する深い痛みがあったからでしょう。彼も不正を働いていたのです。この生活を捨てて、どうにかして新しく生きたいという祈りを心に持っていたのです。これは私たちの心の底にある共通の祈りです。「もう一度新しく生きたい!」という切実な祈り。ですから、イエスさまの招きを聞くとすぐにずっと考えていたことを口にしました。8節です。ここで興味深いのは「4倍にして返します」という言葉です。「不正にだまし取った場合は5分の1を加えて賠償せよ」というのが聖書(民数記5:6)の定めでした。ザアカイも当然その定めを知っていたでしょうが、「4倍にして返します」と言っているのです。ここにザアカイの悔い改めの本気さを見ることが出来ます。「失われた者を捜して救うために来た」とおっしゃるイエスさまに罪赦され、新しいいのちを頂いたザアカイは喜びに満たされました。その喜びはザアカイだけにとどまらず家族全体に広がっていったのです。「今日、救いがこの家に訪れた」とイエスさまがおっしゃった理由です。イエスさまは徴税人の仕事をやめなさいとはおっしゃいませんでした。職業に貴賎はありません。職業からザアカイを引き離されたのでなく、罪から引き離されたのです。私たちも自分の職業をどう生きるかがザアカイを通して問われています。
 3番目は、これもよくご存じの個所です。23章43節です。イエスさまは十字架につけられ、苦しい息の下から御自分を殺そうとしている人々のために「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈られました。この祈りこそ世界を支える祈りです。人知をはるかに越えたイエスさまの愛です。限界のない赦しの愛です。私たちには決して出来ない祈りです。イエスさまの両側には同じように十字架につけられている犯罪人がいました。ひとりはイエスさまを罵り続けましたが、もう一人はそれをたしなめながら、イエスさまに向かって、「イエスさま。あなたの御国においでになる時には私を思い出して下さい」と嘆願します。その時、イエスさまは「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいる」と約束を与えて下さったのです。
 パウロの名を借りて、初代のキリスト者が『「キリスト・イエスは罪人を救うために来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私はその罪人の中で最たる者です』(テモテⅠ1:15)と語っている通りです。死刑囚も赦しの恵みに与ったのです。真の平安が与えられたことでしょう。
 これこそ、すべての罪人が救われるのは確かだという福音です。私たちにも、パラダイスが約束されているのです。
 ようやく今日の日課に辿り着きました。4番目の今日です。
「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」という力強い宣言に羊飼い、ザアカイ、死刑囚そして私たちも喜びました。しかし、ここだけ群衆の間に喜びがありません。反対に、イエスさまを崖から突き落とし殺そうとしているのです。すでに十字架の影が漂っている雰囲気です。何がこのような雰囲気を生み出したのでしょうか。それは、イエスさまの人知を超えた罪人をも救う限界のない愛が原因です。イエスさまが当時異邦人と呼ばれ、神さまの愛の外にいると信心深い人々が蔑んでいたシドン地方のサレプタのやもめ、シリア人ナアマンにも神さまの愛が注がれたとお話しになるのを聞いて群衆は怒り狂ったのです。「あんな罪人たちと自分を一緒にしないでくれ。私たち信仰深い民こそ愛されるに相応しい者だ。彼らは滅ぶべきだ。」と怒り狂ったのです。ここにいわゆる信仰深い人々の恐ろしさがあります。いや、人間の罪の恐ろしさというべきでしょう。私たちは徹頭徹尾自己中心的なのです。
 「目の見えない人は視力を回復し」と聖書にありますが、「見える」と思っている人にはこの言葉は何の感動も与えません。しかし、「見えない人」には救いの光です。同じように罪人だけが「失われたものを捜して救うために来られた」イエスさまを心から喜ぶことが出来るのです。
 私たちは、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」というイエスさまの言葉を羊飼いの素朴な信頼、ザアカイの祈り、死刑囚の悔い改めの心を持って心から受け容れましょう。そして感謝しましょう。この罪人の頭のような私に与えられた恵みの喜びは、私たちから流れ出て家族全体にしみわたるでしょう。そして更に隣人へと向かって行くのです。素晴らしいことではありませんか。そのような喜びの群れとして生きることを喜びましょう。
スポンサーサイト
2013/01/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。