津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスも洗礼を受ける」(ルカ3:15-22)
ルカ3:15-22、2013・01・13、主の洗礼日(典礼色―白―)、イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

ルカによる福音書3:15-22
 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



説教「主イエスも洗礼を受ける」(ルカ3:15-22)

本日は、「主の洗礼日」の礼拝でありまして、先週の顕現主日に続きまして、聖卓などに用いられます典礼色は、今日もまた、特別の白であります。来週の顕現後第3主日からは、しばらく、緑色の時期となりまして、主イエスの語ったみ教えとなされたみわざが、今年の主たる福音書であるルカによる福音書に従って読み進められていきます。
さて、本日の福音では、民衆は、洗礼者ヨハネを、ひょっとしたら、彼がメシアではないかと待ち望みながら、そして、彼らの心の中で熟考していたと始まります。しかし、ヨハネは、それをまったく打ち消して、すべての者たちに対して、自分はメシアではない。自分は、水で洗礼を授けているが、その方は、聖霊と火で洗礼をお授けになり、私よりもはるかに強い方であり、私は、その方の履物・サンダルの革紐を解くのにも適当ではないと断言します。ギリシャ世界、ローマ世界では、主人の履物のひもを解いたり、運んだりするのは奴隷の務めでありましたが、ユダヤ人たちの間では、僕たちには、その務めもなかったそうであります。ヨハネは、自分は来るべきメシアに対しては、その僕、奴隷以下の者でしかないとまで断言するのであります。
ヨハネは、来るべきメシアが来られる前に、罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を説教していたのであります。私よりはるかに強いその方は、聖なる霊と火でもって、洗礼を授けるであろうと洗礼者ヨハネは、皆に語って答えたのであります。
洗礼者ヨハネまでの時代と、主イエス・キリストが来られるメシアの時代ではまったく様相は、異なるのであります。ヨハネは、あくまでも、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を説教していました。本日の福音のルカ3:15-22のすぐ前にも、実を結ばない木の根もとには、既に、斧が置かれているといい、人々に悔い改めにふさわしい実を結ぶ、善行をするようにと勧告していたのであります。そして、ヨハネよりはるかに強い、来られるメシアは、脱穀場を、手に箕をもって、風で、穀物と籾殻をより分け、穀物は納屋へ、もみ殻は、消えることのありえない火で、焼き尽くされるであろうと言っていたのであります。
そのように、聖霊において、また火でもって、洗礼を授けるであろうと、聞きますと、私たちは、メシアは、恐ろしい裁きをもたらすお方なのではないかと、来るべきメシアについて想像するのであります。
しかし、メシアとして来られた主イエスは、譬え話で後に述べられるように、2年も実のならないいちじくの木を、もう1年だけ、その周りに肥をやってみますから、待って下さいとその持ち主、父なる神に、私たちのために、父との関係で、今もとりなしてをしてくださっているお方なのであり、そして、最後には十字架の死によって、私たちを罪の永遠の呪いから解き放ってくださったお方なのであります。
さて、このヨハネは、そのように民衆に多くのことを、又異なることどもを、訓戒しながら、福音を宣べ伝えていたのであります。ヨハネの呼びかけは、悔い改めへの呼びかけでありましたが、同時に、聖霊と火において、洗礼を授けられるメシアを指さし、良き知らせを知らせるものでもありました。  
一方、このヨハネは、人々に悔い改めの水による洗礼を説教する正しい人でありましたので、領主ヘロデ・アンチパスを、その多くのしでかしたその悪事のゆえに非難し、また、弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したことで非難したので、このことに、更に加えて、ヨハネを獄に閉じ込めて、後に殺したのでありました。
ルカはそのように、洗礼者ヨハネが命を落とすことになる出来事を先に記し、それは、洗礼者ヨハネの時代と主イエスの時代を峻別するためにそのように編集し直して、書いているのであります。
さて、そこで、成ったことには、すべての民衆が、洗礼を受けていたとき、そして、主イエスも洗礼を受けていたとき、そして、主イエスは祈っておられたと記されています。主はヨルダン川の水で洗礼をお受けになった。天上の最も高いところから、世界の地の最も低いところまで、身を降ろして、主も、私たちと同じように、洗礼をお受けになられたのであります。そして、その時、彼は祈っておられたと、記されています。ルカは、祈りの姿のイエスを繰り返し、重大な場面で記述しています。最期の十字架上の上でも祈られ、私の魂をあなたにお預けしますとまで祈られていたのであります。すると、成ったことには、天が開け、聖霊が鳩のように、有形の形で、くだってきたのであります。鳩は、イスラエルの民をも象徴し、また、天地の再創造、被造物の再創造をも表わしています。なぜ、聖霊が鳩の形において降ったのか、諸説がありますが、鳩の降下に続いて、声が成り、あなたは私の愛する子、私の心に適う者という声が聞かれたのであります。「娘の声」という鳩が、ぐうぐう鳴くような声が天からそのように、聞こえて来たのでしょうか。よく分かりませんが、鳩の有形の形で、聖霊が降り、「あなたは、私の愛する子、神の独り子、あなたにおいて私は喜んだ」というふうに、原文は成っているのであります。
この主イエスの洗礼における出来事は、神と神の独り子、イエスとの独一的な親密な関係を表わしています。
主イエスは、聖霊と火で私たちに洗礼を授けてくださいます。それは、私たちが実を結ばないので直ちに裁かれるのではなく、かえってご自身が十字架にかかって、私たちのために罪を赦してくださる、そのような洗礼を授けてくださるのです。ヨハネは、悔い改めの洗礼を水で授けましたが、主イエスは、火と聖霊で、私たちをまったく新たに、再創造して、新しく生きることができるように、してくださったのです。そのような意味で、主イエスもヨハネから、洗礼を受けられたのであります。私たちが、罪赦されて、新しい人間として、生きていけるように、聖霊と火で洗礼を施してくださったのであります。本日の礼拝に集っている私たちは、そのイエスの洗礼に与った者の群れであります。
私たちは、私たちの周りの人々、身内や友人をも、このイエスの洗礼に与ることができるように、この一年、主イエスと共に祈りながら、教会生活を続けてまいりましょう。
長い一生の間には、しかしなお、私たちは、罪を、言葉と思いと行いとによって犯さざるを得ない弱い存在であります。しかし、主イエスから受けた聖霊と火とによる洗礼は、すべての罪を取り除くほどの強い、神によって設定された恵みの手段であります。
マルチン・ルターも、サタンに悩まされたとき、インク壺を壁に投げつけて、自分は洗礼を受けている、自分は洗礼を受けていると繰り返し言って、サタンの試みを退けたと言われています。
私たちの受ける洗礼は、外観上は、洗礼者ヨハネが行った、ただの水による洗礼でありますが、父と子と聖霊のみ名によって、受けるものでありまして、洗礼者ヨハネが良き知らせとして、説教していた聖霊における、そして、火におけるキリストの洗礼なのであります。
父なる神と御子なるイエスが、「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者」と天から声が成った、その父と御子との独一的な関係が示された、その洗礼に私たちも与っているのであります。今日の日課の出来事は、私たちと無縁な出来事ではないのであります。そのためにこそ、主イエスは、私たち、民衆と同じように、身を低くして、ヨルダン川の深みにまで降りて来てくださったのであります。聖霊と火による洗礼は、旧約聖書で既に預言されているものでありました。霊と火が、私たちにも降り注ぐ出来事が、本日の主イエスも洗礼を受けたという出来事の中で、成就されたのであります。そのように想起しながら、私たちの受けている洗礼を大切にし、又、聖餐をも大事に守っていきたいものであります。
スポンサーサイト
2013/01/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。