津田沼教会 牧師のメッセージ
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「来られる方を待つ者として」(ルカ3:1-6)
ルカ3:1-6、2012・12・09、待降節第2主日(典礼色―紫―)、マラキ書3:1-3、フィリピの信徒への手紙1:3-11

ルカによる福音書3:1-6
 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアのヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」


説教「来られる方を待つ者として」ルカ3:1-6

第2アドベントには、私たちのルーテル教会では、洗礼者ヨハネの荒れ野で呼ばわる声についての記事を、毎年3年サイクルでマタイ、マルコ、ルカ福音書から与えられています。本日の福音は、ルカ3:1-6であります。皇帝ティベリアスの御代の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、フィリポがトラコンなどの領主、リサニアがアビレネの領主であったとき、神の言葉が、洗礼者ヨハネに臨むのであります。紀元後27年辺りのことであったと考えられています。
そして、この洗礼者ヨハネこそが、荒れ野で呼ばわる声であります。そして、ヨルダン川の全近隣で、罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を説教し始めたのであります。
そして、有名なイザヤ書40:1-11から引用されるのであります。これは、第2イザヤの冒頭でありまして、慰めよ、あなたの民をあなた方は慰めよと、あなた方の神は言われると始まります。あなた方の罪咎は2倍にして満たされ、その服役は終わった。
そして、山や丘は平らにされ、谷は埋められ、バビロン捕囚から、神が導いて、イスラエルの民をエルサレムへ、シオンへと帰らせる。だから、道を平らにし、でこぼこ道は大路として、まっすぐに、ならしめよ。
草や花はしぼむ。人は、草や花に似ている。人間の生涯は、神の目から見れば一瞬、束の間のはかないものである。
しかし、神の言葉はとこしえに無くならない。それに拠り頼むしかない。そして、主なる神は、力を奮ってあなた方を導くお方である。しかし、その一方では、子羊を養う羊飼いのように、あるいは乳を飲ませる母羊たちをふところに、抱いて、導き帰られる恵みの神であると、イザヤ書は、語っているのでありますが、そのように、主イエスがやって来られる。それに備えて、道筋をまっすぐにし、大路を平らにせよ、でこぼこ道を平らにせよと呼ばわる声、それが、洗礼者ヨハネの声であり、私たちに、主イエスを迎える準備をさせる使命を持って、洗礼者ヨハネは、荒れ野で声をあげ、悔い改めの洗礼を説教して回るのであります。
この待降節の時、私たちの心から、邪悪な心を取り除き、主を迎えるのにふさわしい準備をしておきなさいと洗礼者ヨハネは声を上げるのであります。アドベント、到来、冒険の時、私たちの心をまっすぐに神に向け、クリスマスの主イエスを待ちぞなえる時として、過ごすように、イザヤが預言した通り、新約聖書の時代に入り、長く待たれた洗礼者ヨハネが、声を上げるのであります。
ルカのこの記事の特徴は、当時の歴史の中に、待たれたメシア、主イエスがお出でになられる前の状況を、当時のローマ皇帝から、皇帝は主、キュリオスとも呼ばれていましたが、その歴史の政治権力の中に、まずは、洗礼者ヨハネを「荒れ野に呼ばわる声」として、登場させる点にあります。イザヤは、バビロン捕囚からイスラエルの民を解放し、帰還させる神の声を預言したのでありますが、それから、何百年もたって、その声とは、実は洗礼者ヨハネであり、彼が、メシアのお出でになられる前の先駆者として、でこぼこの道や、山や丘を平らにするよう呼びかけるのであります。
私たちは、今、一年の教会暦の始まりを迎え、クリスマスに備えていますが、イザヤが預言しているように、私たちの心はでこぼこだらけであり、闇が覆っていると言えないでしょうか。
救い主が馬小屋で誕生するのを、迎える備えは出来ているでしょうか。真に嬉しい救い主の誕生を、心から喜べる準備ができているでしょうか。
私たちは、洗礼者ヨハネが、荒れ野で悔い改めに至る洗礼を説教している2000年近くも前と同じように、でこぼこの道のままであり、今もなお、ヨハネのあげる声に耳を澄まさなければならない生活を送っているのではないでしょうか。
預言者イザヤは、すべての肉が神の救いを仰ぎ見るであろうと預言しています。この教会暦の一年の初めは、教会暦の色は、紫であります。これは、王であるキリストを指し示すと共に、あの十字架につかれる前の受難節、四旬節の色でもあります。
そして、私たちは、救い主、イエスが、十字架につかれるために、この世界にお生まれになるのに、備えるべく、式文では、ハレルヤ三唱の代わりにキリスト讃歌を歌うのです。「キリストはおのれを低くして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまでみ旨に従われた」と。
イザヤが預言したバビロン捕囚からの解放と帰還の約束は、洗礼者ヨハネによって、実現するのであります。日本人も、人の生涯を草や花に譬える優れた宗教的感覚を持っています。しかし、イザヤの預言は、単なる無常観ではなく、神の言葉はとこしえに、無くならないと宣言するのであります。
私たちは、はかなく、滅びてしまうものではなく、神の言葉によって、とこしえに生きる者とされているのであります。しかし、そのためには、悔い改め、御子を迎えるために、道備えをし、心の中に巣食っているでこぼこの道を平らにしておく用意が必要なのであります。そして、そこにこそ、アドベントの喜びが与えられるのであります。もう2週間もしますと、私たちは、主のご降誕を心から祝うべくクリスマスを迎えるのであります。
私たちの罪の贖いのために、父なる神は私たちに、御子を十字架につけるべく、ベツレヘムの馬小屋で生まれさせられるのであります。
12月25日が、主イエスのご降誕の日とされたのは、主イエスが亡くなって後、何世紀もたってからのことでありました。しかし、冬至の闇の最も長い時から、再び日が長くなって行くまことの義の太陽として、主イエスは、私たちの心の闇を打ち砕いて下さる方として、人々に光を与え、希望の光をもたらす方として、この日にお生まれになったと人々は信じるようになったのであります。
心の中の闇、憎しみとか怒りを、私たちは、まことの光としてお生まれになられるお方によって打ち砕いていただかねばならない。その準備をなすべく、洗礼者ヨハネは、今も荒れ野で呼ばわるのであります。まっすぐな大路を私たちは用意して、主のご降誕に備えていきましょう。アーメン。



☆津田沼教会クリスマスのご案内

○12月22日(土)午後3時~5時、教会学校クリスマス会

○12月23日(日)午前10時半~12時、待降節第4主日・クリスマス主日礼拝
         正午~午後2時、祝会

○12月24日(月・休日)午後7時~8時、クリスマスイブ燭火礼拝

○2013年1月1日(火)午前11時~12時、主の命名日礼拝







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2012/12/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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