津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ふところの深さにすがる」(マルコ9:38-50)徳善義和牧師
マルコ9:38-50、2012・10・07、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―聖餐式)、民数記11:24-30、ヤコブの手紙4:13-5:8

マルコによる福音書9:38-50
 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見かけましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつかずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」





説教「ふところの深さにすがる」(マルコ9:38-50)徳善義和牧師

 今日の聖書の個所を皆さん読んで、あるいは、お聞きになって、ああ、よく分からないな、あるいは、ところどころ分かると思った方がいらっしゃいませんか。これは、イエスさまが、弟子たちを教育した教育風景、それがいくつか点描、いくつか取り出したように弟子たちが覚えていて、主として、イエスさまのお答えがずらっと書いてある。そう思ってその様子を復元してみると、少し、分かってきます。
 イエスさまが弟子たちを、教育なさった、教育の原風景、学校もありません、教室もありません。集会室もありません。教科書もありません。カリキュラムもなければ、授業の教案もありません。何にもない。状況、危機的な状況です。イエスさまは、私たちが今日読んだ一つ前を開けると、御自分の死と復活の二度目の予告をなさっている。その話を二度も聞けば、一度目は、ペトロがそんなことが起こらないようにと言って、サタンよ、引き下がれと言われたのは、聞いたところですが、それで、少しは変わるかと思ったら、変わらない。イエスさまは、二度目なさったのと、道々歩いている。イエスさまが弟子たちを教育なさった教育は、道々歩きながらの教育です。イエスさまだから、特別ということではなかったでしょう。
 孔子もそうだった、ソクラテスもそうだった。昔の教育などというものは、それは、野原の真ん中でお庭に座ったり、何にもカリキュラムもないところで、教育が行われていたのですが、この風景も不思議なわけではない。でも、事態は深刻です。何もイエスさまの受難予告の効き目がない。道々、弟子たちが、だれがいちばん偉いかと論じ合っていたのを聞いて、イエスさまはお答えになる。これが、私たちが今日読んだところの前の段落です。
で、次の段落、ヨハネがイエスさまに言う。それに、イエスさまがお答えになる。これが教室です。イエスさまは、変なことをしたとお思いになりますか。皆さん、論語という本があることお聞きになったことがあるでしょう。孔子が残した本です。これは、弟子たちと孔子の問答集が大体書いてある。そこにも、殆ど孔子の答えしか書いてないので、我々は変に思うのです。しかも、昔の言葉で。私たちは、漢文を習った最初の頃に、これを読まされました。友あり、遠方より来る、また、楽しからずや。かな文字の入ってない文章を読まされる。学びて、また、学ぶ、楽しからずや。難しい、大体、お爺ちゃんが漢文の先生でしたから、面白くない。
 こういう返答を孔子がするには、弟子がどんな質問をしたかなと考えると、俄然、面白くなる。そういう本を私は書いてみたい。しかし、時間と意欲がもうない。先生、先生はいつも物を考え、難しそうな顔をしています。先生にも何か楽しいということがあるんですかと弟子たちが聞いたに違いない。私にだって楽しいことはあるさ、友だちがいる、遠くから私のところへ訪ねて来てくれる。これは、人生の楽しみの一つではないかね。
 学びて、時に、学ぶ。本を読むさ。その本を、また、引っ張り出して読んでみる。ああ、こういうことだったのかと、新しい発見をする。これも楽しいことだろう。
 質問が出てくると楽しくなります。昨日、僕、論語面白い言葉ないか、コンピューターで、調べてみた。学びて思わざれば暗し、思いて学ばざれば、すなわち、危うし。これだけ、聞いたら何のことか分からないですね。これを、質問付きで復元してみます。先生、人間、何か一生懸命学ぶ、本を読むことに尽きるのですね。いやいやそうではないぞ、本を読むだけで、自分で考えることをしなければ、お先、真っ暗だ。自分で考えてるだけで、本を読んで、人が考えていることを自分がそこから学ぶということがなければ、独りよがりになって、危ないこと極まりないのだぞ。孔子様は、そう返事なさったのですよ。
 こういうふうにしてね、皆さん、マルティン・ルターの本が終わったら、その次に、どこか本屋さんに行って、論語の易しい本を買ってきてね、読みながら、一つ一つ、これは弟子たちがどういう質問をしたのかなと思いながら読んでみると、あのへんちくりんな難しい本が、楽しい本になります。
 今日の所もそうです。最初だけは、質問らしいのがあります。ヨハネがいささか得意げですね。先生、お名前を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、私たちに従わないのでやめさせようとしました。私たちの言うことを聞かない。あなた、それをやるならね、私たちのグループに入ってからやりなさい。それに、イエスさまがお答えになった。やめさせてはならない、わたしの名を使って奇跡を行い、そのあとで、私の悪口は言えまい。
 私たちに逆らわない者は私たちの味方なのである。どこに問題があるのかですよ。悪霊を従わせるというのは、イエスのみ名によってなのです。イエスのなさった奇跡は、イエスのみ名のゆえに起こったことなのです。それを、弟子たちは、自分の力だと思い込んだ。私たちに従って来ない、けしからんじゃないですか。
 ここに飛躍があるんですよ。私たちに従う必要はない、イエスさまに従う。この間違いを、イエスさまはすぱっと言われますね。答え、簡単です。我々の普段の言い方で言うならば、友達の友達はみんな友達。でも、ここにイエスさまが中央の柱のように立って来ると、友だちが変わってきますね。弟子たちは、イエスの弟子なのです。イエスのみ名によって語り、イエスのみ名によって祈り、イエスのみ名によってしるしを行うことを許されてその力を与えられている。いつしか、ローマ時代です、これは、俺たちの力なのだと思うようになる。その力の優れている奴はだれかと考えるようになると、だれがいちばん偉いかというところにもつながってくる。そうじゃないですね。
 我々がいつも考えなければならないのは、信仰の中で、我々はイエスの弟子、イエスのもの、だから、みんな、私の名によって、奇跡を行った後に、私のこと、悪口を言う者はいまい。そのままにしておきなさいよ。
 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、キリストの弟子だというのは、この聖書の訳しすぎですね、キリストのもの、クリスチャン、キリストのものだ、弟子まで出なくてもいい、キリストの者のはしっくれでもいい。その小さいはしくれにでも、水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。だれが偉いかというあの論争の続きでもあるような気がしますね。
 その後に続いて起こってることについては、質問が書いてありませんから、きっとおそらく、いくつかの質問があったと思います。私を信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれる方がはるかによい。前の質問ともちょっと変わってくるでしょうね。
 私たちの後について来る者の中には、大した奴じゃないんですが、いろんなことを言う男がいましてね、女でもいい。取るに足りないやつでしたから、追い出してしまいましたよ。純粋に限りますからね、イエスさまの弟子は。と、弟子たちのだれかが、私は言ったかもしれないと考える。私について来ようとする者にはどんな者にでも、心を尽くして、その人たちの魂の導きをするのが、あなたがた弟子たちの務めではないのか、とこう言ってるわけです。そんな奴はだめ、そんな奴だめといって足でけっとばす。
そんな奴はだめだと白い目で見る。こういう場面が、目に浮かぶじゃないですか。その手、その足、その目こそ、取って捨てなきゃだめなくらいだ。こういうイエスさまの返事。そういう、あなた方が小さいと思っている人、自分たちの仲間、さっきは、外の人で、ヨハネの弟子たちがイエスの名によって、奇跡を行っているのはけしからんと言った訳。今度は、自分たちの仲間でもね、えりすぐりにしようと思って、あれもだめ、これもだめというその手、その足、その目が問題だよ、そうじゃない、そういう小さい者も一人一人、イエスの名によって集まって来る者として、心を尽くして、共どもに、信仰の歩みを、イエスさまに従う信仰の歩みを続けて行くのだよ、二つ、比べて見るとこうなりますね。一つは、主のみ名によって集う者、いろんな人たちがいるにしても、ほかの人たちにはできるだけ、主のみ名によって集うという、そのことだけ、できるだけ、寛容でありなさい。しかし、弟子たち、あなた方よ、その時に、自分に関してだけは、できるだけ厳格でありなさい、我々なかなかそうはいかない、世の中の生活をしていてもね、いろいろ厳格なことを言う人いますよ。
 つつましくテレビに登場するあの方などもそうですね。いれずみしていてもいけない、首だと。市役所の職員で、自分が何か不倫したら、いやこれは、家庭内の事ですから・・・。
そうじゃないんですよ、イエスさまのおっしゃるのは。ぼくは、あの人はあそこでやめるといいと思ったね。あれであの人、男が上がるのに、あの人やめないから、今や、週刊誌の新聞の広告じゃありませんけど、もう秋風になってほしい。これは、我々の姿です。人に厳しく、自分に優しい。イエスさまが言っているのは反対ですよ。
 いや、そんなふうに、イエスの名によって従う群れのことについて、ほかの人にやさしくして、自分に厳しくする、どういう風にしたらできるんですか。誰かが聞いたんです。私たちにはそれできません。これが、最後の2節ですね。区切りがついていないから、どこで切っていいのか分からない。ここで切るでしょう。そしたら、イエスさまは、人は皆、火で塩味を付けられる。どういうふうにこれを読むか、複雑な読みになるのですが、つまり、要するに、この最後の2節で言っているのは、自分の内に塩を持ちなさい。そして、味付けするためにその塩を少しずつ持ちなさい。
 塩って難しいですね。やわらかいやつ。私なんか、時々自分でやると失敗しますね。お料理をきちっとやる人など、何とスプーンで測ったりしませんから。目も見えないのに塩の引き出しに指先突っ込んでぽいっと入れるわけですから、失敗する。
お砂糖でもぱっと入れますから甘すぎて、・・。塩味、難しいね。自分の内に塩を持って、この塩で、自分に厳しくしなさい。この塩がめから、自分は塩がめです。だけど、この塩がめから、味付けするだけは用心して、ちょっとだけ、食べ物の味が引き立つように、上手に使いなさい。それで、自分に厳しく、他人に優しくなる。
 この塩加減、この辺りは、お料理のベテランの女性方にとっては、うん、そうだそうだと、いろいろお考えになるにちがいないと思います。で、この問答は、まだずうっとこれから先も続くんですよ。この次、この聖書は小見出しが付いてますけど、離縁について教える、これも、質問、そして、答えです。そういう質問と答えで、イエスさまは弟子たちの教育をなさった。時間は切迫している。もう二度目の予告をしました。
 最後に、もう一度三度目の受難予告がありますが、その最後ぎりぎりの予告が迫っている。残り時間がない。弟子たちに伝えるべきことは伝えておかなければならない。ある意味でこの教室は、必死のイエスさまの教育活動だったでしょう。この問答、これが生きてくるのは、信仰問答ですから、教理問答です。皆さん方、洗礼をお受けになる時、小教理問答書で勉強なさるとすれば、質問があったのを思い出されますか。聖文舎の訳は、どうしても捨てきれなくて、何の意味ですかという訳を付けている。あれは、マルティン・ルターが書いた原文から長いこと英文に訳されて、英訳から明治の頃に、だれか日本人が翻訳した。それで、今でも続いているのですが、英語の訳は、What does this mean?聖文舎の森優社長の時に、何度も、私は、これを変えなさいと言ったが変えなかった。「これは何の意味?」そこまででした。マルティン・ルターが言った通りに、Was ist das?これにかえなさいよと言った。子供が、父ちゃん、これはどんな意味?なんて聞かない。父ちゃん、これなあにときくんです。それがここに書いてある。
信仰の学びというのはこういう形で起こるんですね。これは何だ。一体これはどういうことを言っているんだろう。そういう質問をして下さい。牧師の務めは、そういう一つ一つの言葉に出る信仰の問い、言葉に出ない信仰の問いに答えること、信仰の生活の中での実際の人と人との交わりの中で、今日我々が学ぶのは、人に優しく、自らに厳しく。そして、その背後に見えてくるイエスさまの姿、このイエス様のお姿は、あくまでも優しい。手を切って捨てよ、足を切って捨てよ、目を取って捨てよと厳しくいっているようだけれども、この弟子たち一人一人を、そんなこと言っているようではお前は破門だとお捨てにならないから。マルコ福音書は、ある意味で、初めから終わりまで弟子たちの失敗談です。青いラインで、ここは弟子たちの失敗という欄を書いていったら、半分以上青になるのじゃありませんか。なぜ、書いたんでしょう。
 こんな私たちでも、イエスさまはお捨てにならなかった。こんな私たちでも、イエスさまは教え定めて、最後に、もう一度復活して、ガリラヤに呼び集めて、そして、ガリラヤから私たちを全世界に送り出して下さった。少し分かるようになった弟子たちのそういう思いが詰まった福音書ですね。イエスのことを伝えながら、弟子たちは、あまりにもきわまる失敗談を残し続けた。その中で、弟子たち自身、よくぞ、私のような者を我慢して、教え育て、そして、宣教に送り出して下さったものだと、後々の日に感謝せずにおれなかったはずだと、私は思います。
 イエスさまの愛が深い、イエスさまの愛は深くて限りがない、それは、今日私たちが読む聖書の個所では、イエスさまの懐は実に深い。そういうことを知らされることになると思います。私たちもまた、主ご自身が備えよと言って下さった塩を私たちの内に保ち続けながら、その塩を働かせ続けて、その塩を少しずつ使った平和、和みの信仰生活、人生の味を出していきたいものだと、この聖書の個所を読みながら、私はしみじみとイエスさまのお言葉をかみしめた訳でした。お祈りしましょう。
天の父なる神さま。
今日も私たちは、あなたのみ言葉のもとに、イエス・キリストご自身が語られたことばのもとに、膝をかがめて耳を傾けることが出来たことを感謝をいたします。イエスさまが弟子たちに、物分かりが悪い弟子たちに教え諭すように優しい愛の心で教えて下さった教えを、私たちもそれぞれに信仰の内に受け止めて、信仰の生活をしていくことが出来ますように。共どもに集う時も、信仰の日々を一人で過ごす時も、あなたが私たちを導いて下さるようにお祈りをいたします。主のみ名によって感謝して祈ります。アーメン。






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2012/10/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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