津田沼教会 牧師のメッセージ
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「イエスさまのため息」(マルコ7:31-37)内海望牧師
マルコ7:31-37、2012・09・16、聖霊降臨後第16主日礼拝(典礼色―緑―)イザヤ書35:4-10、ヤコブの手紙1:19-27、

マルコによる福音書7:31-37
 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」



説教「イエスさまのため息」(マルコ7:31-37)内海望牧師

 ここでもイエスさまは、苦しんでいる人を無名の人としてではなく、まさに「向かい合う人」として接してくださっています。32、33節を読むとよく分かります。相手が耳が聞こえず、舌が回らない人ですから、イエスさまは無言です。しかし、イエスさまの細かい所作の一つ一つに愛の深さを感じます。このイエスさまの動きを「言葉なしの説教」と語った人がいます。いずれにしても、このようなイエスさまの前では、私たちのだれ一人「大海の一滴」などではありません。一人のかけがえのない私になるのです。あの12年間病に苦しんでいた女性のことを思い出して下さい。あの女性に向かって振り返って下さるイエスさまと同じです。
 私たちは、このイエスさまの愛をしっかりと心に刻み込んでおきたいと思います。私たちは孤独感にさいなまれることがあります。思わず「私なんかどうでもよい」と沈み込んでしまい憂愁に包まれて一歩も歩めなくなることもあります。しかし、そのような時、「世の終わりまで、いつも、あなたと共にいる」と約束された方の愛を思い出して下さい。イエスさまは私たちを見放されません。
 この耳が聞こえず、舌が回らない人は本当に驚いたことでしょう。何故なら、彼は人に連れられて、イエスさまのもとに来ました。ところが、実際には、イエスさまが、彼のもとに来て下さったのです。「重荷を負う者、誰でも私のもとに来なさい」と招いて下さるイエスさまですが、イエスさまは基本的には近づいて下さる方なのです。そして、しっかりと寄り添って下さる方なのです。
 その姿が、「天を仰いで深く息をつき」という姿によく現れています。「深く息をつき」という言葉は「ため息」あるいは「呻き」と言い換えてもよい言葉です。「何とかして、この人の苦しみを取ってあげたい」という共に苦しむ思いが「呻き」となって出て来たのです。あるいは、深い祈りと言ってもよいでしょう。
 今朝は、このイエスさまの「ため息」あるいは「呻き」について思いを深めたいと思います。
 イエスさまは、祈ることの切実さと苦しみをとことんまで経験された方です。私たちは、イエスさまの祈りに「聞き届けられない祈り」の苦しみの経験を見出します。イエスさまは、最後の晩餐後、ゲッセマネで祈られました。「アッバ、父よ、この杯を私から取りのけてください」と。まさに「呻き」です。ルカ福音書によると、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」と記されているほどでした。これと同じような経験をしたことがある方もあるでしょう。その辛さを経験してくださった方がイエスさまなのです。それどころか、イエスさまは、十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた方です。そして、まさにこの方が、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と約束して下さっているのです。だからこそ、イエスさまが共にいて下さるということは何ものにも代え難い慰めなのです。同じ苦しみを経験して下さっている方が共に祈って下さるのですから。ここで、「共にいる」「寄り添って下さる」という言葉の意味がはっきりしてきます。これに比べると、私たちが口にする慰めの言葉がどんなに浅薄なものであるか身を切られる思いにさせられます。
 更に、一歩思いを深めましょう。
 人生の歩みの中で、私たちは、貧しい時、豊かな時、順調なとき、逆境の時などいろいろな出来事に出会います。その渦中にあって、私たちはいつも自分の都合のよいように生き方を変えて行きます。環境に適応させるということはあるでしょう。ところが心の向きまで変えてしまうことがあるのです。
 実は、場合によっては、イエスさまが共にいて下さることさえ忘れて自分のことに熱中してしまうのが、私たちのありのままの姿ではないでしょうか。あの放蕩息子は他人事ではありません。
 「祈っている時でさえ、自分のことを考えている」と修道院時代のルターは自分の心の動きに震え慄きました。これはいい加減な感想ではありません。ルターは心から神さま中心に生きようと決意し、エルフルト大学法学部卒という約束された未来を捨てて修道院に入ったのです。真剣に修道士として定められた規則を守ろうと努力しました。それでも、自分の心はねじれていて、どうしても自己へ自己へと歪んで行くのだ、と絶望のため息をあげているのです。パウロも、「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。私はなんと惨めな人間なのだろう」と嘆いています。まさに、これは誠実に生きようとする人間共通の「呻き」ではないでしょうか。
 イエスさまが、「いつも、あなた方と共にいる」とおっしゃった時、そのような罪人である私たちの姿をよくご存じだったのです。私たちがイエスさまを離れ、自分本位に生きている時、イエスさまに逆らって生きているとき、それでもイエスさまは、「変わることなく、いつも共にいて下さる」のです。「いつも」と言う約束は真実なのです。私たちは何と不実な民でしょうか。
 更に、ゲッセマネの祈りを思い返してみます。「この杯を取りのけて下さい」と祈られたイエスさまですが、これに続けて「しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と付け加えていらっしゃいます。この時、イエスさまは神さまの御心が罪人を救うために自分が死ぬことなのだということをご存じだったのです。だからこそ、イエスさまは十字架上で「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」のです(ヨハネ19章30節)。つまり、イエスさまは私たち罪人、恩知らずの徒を救うために、それが御心に適うことだと信じたから、その御心を成し遂げるために命を捨てて下さったのです。御自分の命を救うことをなさらず、御自分の死によって私たちを救って下さったのです。「いつも、あなた方と共にいる」という言葉にはこの重さ、イエスさまの格闘があるのです。決して、いい加減な約束ではありません。命がけの約束です。
 イエスさまが「深く息をつき」と書かれている言葉には、これら全部が含まれているのです。パスカルがこんなことを書いています。「イエスさまは世の終わりまで苦悶しておられる。」そして、「世の終わりまで」と言う言葉の意味は、「すなわち、地上で人間がうごめいている限り」ということだと説明しています。イエスさまの祈り・呻きは世の終わりまで続くのです。その呻きには、この私の罪に対する祈りも含まれています。私たちもイエスさまを苦しめている一人なのです。
 しかし、私たちはまた、このイエスさまが復活の主、勝利の主であることも知っています。確かに、イエスさまは今もこの私たちと共に苦しんで下さる方です。しかし、同時に罪と死に対する勝利を成し遂げられた方なのです。ですから、私たちは滅ぶべき罪人として、かけがえのない一人として、イエスさまの勝利にも与ることが許されているのです。イエスさまの「父よ、彼らをお赦し下さい」と言う執り成しの祈りに心から感謝し、共に喜びましょう。
 最後に、「開け」(エッファタ)というイエスさまの命令に目を向けたいと思います。私には、この言葉はイエスさまが「自我を離れ去り、自由になれ」と私たちに呼びかけて下さる励ましの声として心に響きます。単なる命令でなく励ましの言葉です。このイエスさまの愛を聴き取る耳を与え、み言葉を伝えるため舌を解きはなって下さったように聞こえるのです。このみ言葉に励まされて、この1週間を歩み出しましょう。共に福音を聴き取り、救いを宣べ伝える群れとして歩んで行きましょう。



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2012/09/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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