津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神の言葉か、昔の人の言い伝えか」(マルコ7:1-15)
マルコ7:1-15、2012・09・02、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―聖餐式)、申命記4:1-8、エフェソの信徒への手紙6:10-20

マルコによる福音書7:1-15
 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。―ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
 『この民は口先ではわたしを敬うが、
  その心はわたしから遠く離れている。
  人間の戒めを教えとしておしえ、
  むなしくわたしをあがめている。』
 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」




説教「神の言葉か、昔の人の言い伝えか」(マルコ7:1-15)
 先週は、教区の宣教ビジョンセンターという集まりで、足尾銅山の跡地を中心に、教職、引退教職、また、信徒2名を合わせて、合計9人でレンタカー2台に乗り合わせて、見学と研修の一泊二日の旅行をしてきました。足尾銅山は、1610年に発見され、閉山に至ったのは、それほど昔ではない1974年のことであります。その中で足尾鉱毒問題として、田中正造が日本としては、初めてとも言える公害問題に立ち向かい、その半生をかけたといってもよい大切な働きをなしたのであります。その田中正造は、1912年の死でありますから、今年は没後100年であります。明治天皇に足尾鉱毒問題を、直訴したことでも有名であります。そして、何度かの獄中にいるときに、新約聖書に出会ったようであります。渡良瀬川の水が、以前のように清流に戻ることを念願しながら、一生を終えた人であります。今では、足尾銅山跡地は、世界遺産指定を目指して、申請がなされているということであります。
 さて、本日の福音記事は、ガリラヤにおいて、主イエスとエルサレムからのファリサイ派や律法学者たちと、論争した出来事であります。
 主の敵対者たちは、主の弟子たちが、汚れた手で、すなわち、手を洗わないで、パンを食べているのを見て、主イエスに質問するのであります。どうしてあなたの弟子たちは、昔の人の言い伝え、伝統に従わないで、手を洗わないで食事をするのかと。すなわち、当時のファリサイ派や律法学者たち、特に熱心なエルサレムの学者たちは、念入りにこぶしで、肘まで念入りに洗ってからでないと、食事をしなかったと言います。その他にも、鉢や銅の器、やかんなどを、水につけたり、寝台を洗ったりと、細かな昔の人の言い伝えを口頭伝承や、文書となった伝承を几帳面に守っていることがイエスの時代には一杯ありました。
 主イエスは、それに対して言われました。あなた方のことをイザヤは、見事に預言したものだ。あなた方、偽善者は、口では私を尊崇しているが、その心は私から遠く離れている。私を空しく礼拝し、人間の命令を教えとして教えていると。神の命令、掟を後に残して、人間の伝統を固守していると。
そして、彼らに言っておられました。あなた方は、見事に神の教え無効にし、あなた方の伝統を固持していると。なぜなら、モーセは言ったからである。あなた方の父母を敬え。父母をののしる者は死でもって死なしめよと。ところが、あなた方は、父母に対しても、あなたにささげるものは、コルバン、すなわち、神への贈り物ですといえば、父母への務めを果たさなくても良いと言っている。そうして、神の言葉を無効にして、あなた方の伝統でもってそうし、あるいは、あなた方の伝統で教えている。そしてそのような、多くのことをあなた方は行っていると。
 それから、主イエスは、再び群衆を呼び寄せて、彼らに語っておられたのであります。あなた方は皆、私に聞きなさい。そして、洞察を得なさい。人間の外から彼へと入るものは何も、彼を汚すことはできない。そうではなく、人間の内側から出てくるものどもが、人間を汚すものどもなのであると。
 主イエスは、基本的に、どんな食物も清いとされたのであります。確かに、食物にも、ある人にとってはふさわしくないものもあるでしょう。私は、普段、アルコールは飲まず、タバコもやらず、他の刺激物もなるべく避けています。しかし、色々な食物を食べても、それで、人間の心が汚されるというわけではありません。
 人間を汚すものどもは、心の内側から出てくるものどもであります。私たちは、自分の内側から出てくる言葉によって、思いによって、自分をも汚すことになるのであります。1週間の生活を振り返るとき、特に、家庭で、心の内側から出てくる悪い思い、悪意とか、妬み、憎しみとかが、出てくることを私は痛感させられます。
 しかし、1週間のそうして出てきた思いと行いと、言葉を、私たちは、神のみ前にさらけ出し、悔い改めることによって、赦され、新たな1週間へと、新しい心とされて押し出されていくことができます。そして、神の言葉によって、多くのことに煩わされている1週間の中で、欠くことのできないただ一つのものを、選び取ることができるのです。
 田中正造もまた、特に晩年は新約聖書を手放さず、明治時代の権力との戦いの中で、非暴力を守り、神の言葉に立って、渡良瀬川の水を再び清くし、治水の事業のために、一生をかけて、100年前にその尊い生涯を終えたのであります。
 私たちも、本日、聖餐式に与りながら、心の内側から清い者とされて、9月の月を始めていきたいと思います。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


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2012/09/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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