津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリストに遣わされている私たち」(マルコ6:6b-13)
マルコ6:6b-13、2012・08・12、聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)、アモス書7:10-15、エフェソの信徒への手紙1:3-14

マルコによる福音書6:6b-13
 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまでは、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。










説教「キリストに遣わされている私たち」(マルコ6:6b-13)
 

私たちは、本日、マルコによる福音書6:6b-13を福音として、与えられています。皆さん、ご承知のように、私たちは、3年サイクルで、福音書を、マタイ、マルコ、ルカ福音書、これを共観福音書と言いますが、その順番で、A年、B年、C年として、決められた個所を読んでいきます。ヨハネ福音書は、1年の教会暦の中で、復活後主日などに時折読まれます。
私は、牧師になって、19年目を歩んでいますので、ここの個所、マルコ6:6b-13で、恐らく6回は説教していることになります。しかし、不思議なもので、何回説教しても、汲めども汲みつくすことのできない福音の豊かさを、その度に味合わされています。
 さて、今日の個所は、故郷ナザレでの伝道の失敗の後に続いていますが、私たちの新共同訳聖書は、マルコ6:6b(後段)から、13節までを、主イエスのなさった12弟子への宣教命令として、区分しています。もしかしたら、ナザレでの宣教の失敗が原因で、会堂での宣教が、難しくなったので、周りの村々へと、教えながら、主は、歩き回っておられたと続いているとも、考えられます。その場合には、6:7から、宣教命令のセクションが始まると考えられますが、ナザレでの宣教の失敗から、主イエスが急に他の方法に転じたとは、どうも、考えられないのであります。
ここは、私たちの本日の聖書日課が、6:6b-13としていることからも窺えるように、マルコが、故郷ナザレでの宣教の出来事の後に、ここにマルコ福音書記者が編集し直したのだと考えるほうがすっきりするようであります。また、マルコ6:14以下には、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが、主イエスのうわさを聞いて、洗礼者ヨハネが生まれ変わって出て来たのだと恐れる記事が続いていますが、歴史的には、そのようなエピソードは、もっと後の出来事であるように思われます。
 また、最初の3つの福音書は共観福音書と言われますように、本日の共通の出来事は、マタイにも、ルカにも出てきます。
私たちは、現在では、マルコ福音書が一番古い共観福音書だと一般的に考えていますが、本日の記事についても、ルカ福音書の並行個所、ルカ9:1-6がよりオリジナルではないかという説もあります。ルカでは、12弟子の派遣のみでなく、ルカ10:1-16では、他に、72人を派遣したというより詳しい記事もあります。
 しかし、私は、本日の出来事についても、マルコが、オリジナルであり、それを、下敷きにして、Q(資料という意味)という資料をも、取り入れて、マタイや、ルカがそれぞれの伝承をも、プラスして、それぞれの共通記事が出来上がっていると見ても、支障はないと思います。
  さて、本日の、記事を、今一度、思い起こしてみましょう。主は、村々をあちこちと、教えながら、歩き回っておられました。そして、12人を呼び寄せ、二人ずつ組にして、汚れた霊どもへの権威を与えながら、遣わします。これは、アポステッローという言葉で、ペンポーという普通に送り出すというニュアンスの言葉よりも、主イエスの代理人として、あるいは全権として派遣するというもっと強い意味の言葉が使われています。そして、彼らに命じます。杖のほかには、パンも、袋、布施を乞う袋も、帯の中に銅貨も持たず、ただ、履物ははいて、しかし、「あなた方は2枚の下着は着ないように」と命じられます。人の子がまもなく、再来するという切迫した危急の宣教であったからです。この世の財貨やそれぞれの人格などに頼るのではなく、神の国を、神の支配を告げなければならないので、神から、そして、キリストから信頼を受けて、できる限り軽装で不必要なものを持たないで、出て行くように主イエスによって命じられて出て行くのです。
 さらに、主は、どこでも、ある場所に入ったら、その家にその地方から出て行くときまで、とどまりなさいと言われ、もし、その場所があなた方を歓迎せず、彼らがあなた方に耳を傾けないなら、そこから出て行くときに、彼らへの証しへと、すなわち、警告として足の下の塵を払い落としなさいと言われます。当時のユダヤ人たちは、異教の国からイスラエルに帰って来たときには、汚れを清めるために足の裏の埃を払い落としたと言われています。
更に、弟子たちはより快適な安楽な家へとむやみに動き回ってはならないと言われます。そして、彼らは出て行って、人々が悔い改めるように、宣教し、説教した。そして、多くの悪霊を追い出していた。そして、多くの病人にオリーブ油をぬっていた。そして、彼らは癒していたと、本日の記事は終わっています。宣教の内容は、彼らが悔い改めるようにという洗礼者ヨハネもした説教以外のことは具体的には書かれていません。オリーブ油を病人に塗るということも、新約聖書ではルカ福音書の良いサマリア人の譬えとヤコブ書の記事と本日の記事の3個所しか出て来ません。それは、当時のマルコの教会、共同体の慣習であったのでしょう。
 さて、私たちもまた、今日、本日の主イエスの宣教の言葉をゆだねられています。塗油による病人の癒しや、多くの悪霊追い出しは、それに伴うしるしに過ぎません。確かに悪霊追い出しや、病人の癒しは、現代の私たちにとっても、大きな喜びであり、慰めでありますが、み言葉を宣教することは、それ以上に慰めと救いをもたらすのです。
 主イエスの言葉、そして、神の言葉を語ること、み言葉の宣教が12使徒たちに、託されたより重要な使命でありました。
本日の主の宣教命令は、2000年経った現代の私たちにも求められており、また、永遠に有効であり、それは、私たちの才能や、創意性に基づくものではなく、神の力に、そしてイエスの力に頼ることが求められています。
パウロが語っているように、私たちが弱い時に、かえって、私たちを通して、主の力が働くのであり、私たちは、それぞれが、土の器に得難い宝を与えられているのであります。
現代は、主イエスの時代や環境に比べる時、物や資源が氾濫している時代であります。それだけ、物質的なものや、科学技術などに依存しがちな時代を、私たちは生きています。
しかし、主が12弟子たちに言われたように、必要最低限なもの以外は持たずに、み言葉にのみ、信頼して、主イエスの言葉、神のみ言葉、聖書にのみ、信頼して歩むことが、以前にも増して必要な時代になっているのではないでしょうか。
マザー・テレサや、ガンジー、あるいは、田中正造は、亡くなったとき、必要最小限のほんのわずかなものしか持っていなかったと言われています。
主イエスが人の子として、まもなく再来すると信じて、マルコの教会の人々は、派遣された場所で、他の人々に、悔い改めを説教したのでありましょう。私たちも、経験不足や能力の貧しさを口実として、宣教に億劫になるのではなく、特にこのお盆の時期、家族や友人に、小さなキリストとして、神の国の到来、神の支配を、言葉や振る舞いによって、また、生活そのものを通して、証しする者とされたいものであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2012/08/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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