津田沼教会 牧師のメッセージ
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「振り返るイエスさま」(マルコ5:21-43)内海望牧師
マルコ5:21-41、2012・07・29、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)、哀歌3:22-33、コリントの信徒への手紙二8:1-15

マルコによる福音書5:21-34
 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。



説教「振り返るイエスさま」(マルコ5:21~43)内海望牧師

イエスさまは人々の痛み苦しみを決して見過ごしにはなさらない方でした。これは簡単なことではありません。私たちは「向こう側を通って行った祭司やレビ人」を非難しますが彼らは私たちの心を言い当てています。私たちは嫌なこと、厄介なことは努めて避けたいのです。イエスさまはそうではありませんでした。
それにしても痛みを負う人間の数には際限がありません。イエスさまの周囲には、いつもおびただしい人々が集まっています。今日の聖書でも「大勢の群衆が」とか「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た」と書かれています。読むだけで息苦しくなります。イエスさまも疲れ果ててしまわれることでしょう。しかし、イエスさまは人々から逃げ出すことはなさいませんでした。
ところが、聖書を読むとこういう記事も折々出て来ます。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(1:25.ルカ5:16)。イエスさまの日常生活での力の秘密は、「祈ること」にあったことは間違いありません。「今日は忙しいから普段の倍の時間祈ろう」とルターは言いましたが、神さまと静かに話し合う祈りの時を持つことは、疲れを取り去り、心を軽やかにします。祈ることは決して逃避ではなく、私たちの心を活き活きと蘇らせる生きた恵みの泉なのです。祈ることを教えられた私たちは何よりの恵みを頂いているのです。
イエスさまがヤイロの娘の所に行く途中も多くの群衆で、混雑していました。その中に12年間も病いに苦しんでいる女性が交じっていました。多くの医者にかかっても治らず、かつそのために財産を使い果たしてしまったと記されています。希望を失わせるに充分な年月です。単に肉体的な痛みにとどまらず精神的にも疲れ果てた状態にあったと言えましょう。その彼女が一縷の希望をかけて群衆に紛れ込み、後ろからイエスさまの服に触れたのです。
彼女は後ろからイエスさまの服に触れたのです。会堂長のようにイエスさまのみ前にひれ伏してお願いすればよいのに、どうして「後ろから」だったのでしょう。聖書は何の説明もしていません。しかし、33節の「震えながら進み出て」という彼女の姿によって、その心根を推察することは出来ます。彼女はイエスさまの前に進み出るのが怖かったのです。後ろめたいことがあったのでしょう。それは何でしょうか。彼女の日常の悪しき行いのことなのでしょうか。こんなに長い間、苦しみ、財産も減って行く中で、時には自暴自棄になることもあったでしょう。12年間苦しんだのは決して病気のためだけではなかったでしょう。察するに余りある苦しい人生を歩んできたのです。
しかし、イエスさまの服に触れた時、12年間あれほど苦しんだ病いはすっと消えました。女性はそれを体で感じました。この女性は本当に驚き、喜びました。ここで物語が終わるなら、これは単なる奇跡物語です。
ところが、30節に至って、俄然、場面は一転します。イエスさまは御自分から力が出て行ったことに気付かれました。イエスさまは決して力を見せびらかす魔術師のような方ではありません。イエスさまの力は苦しんでいる人々を決して見過ごさないという愛から生まれるのです。マタイ9章35節以下には群衆を「深く憐れまれた」と書かれています。岩波訳では「はらわたがちぎれる思いで」人々に福音を伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされたと書かれています。この場面で大切なのは奇跡でなく、イエスさまのこの深い愛情なのです。イエスさまが気付かれたのは「ここにも苦しんでいる人がいるのだ」というはらわたがちぎれるほどの愛情であったのです。イエスさまは振り返ってだれが触れたのか知ろうとなさいました。この「振り返り」という言葉が大切です。どうしても苦しんでいる人に会いたい、交わりを持ちたいという意志がそこにあります。どんなに忙しくても、疲れていても、苦しんでいる人、助けを必要としている人と出会おうという堅い意志です。このイエスさまの真剣さ、愛の深さが、この女性の心を揺り動かしました。そして、イエスさまに従うなど全然考えず、ただ自分の病気の癒しのためにイエスさまの力を利用しようとしていた自分に気付かされました。彼女はひたすら恐れ、震えながらみ前に進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話したのです。全く砕けた悔いた心でイエスさまの前に進み出たのです。言い換えればイエスさまの真実に対して、真実の応えたと言えましょう。
しかし、イエスさまは彼女を責め立てるために振り返られたのではありません。愛をもって振り返られたのです。しかし、今この女性は神の独り子イエスさまの前に自分のすべてを告白しているのです。ここに真実の交わりが生まれました。
この振り向かれるイエスさまの姿は、イエスさまが捕らえられ、最高法院へひかれて行く途中、イエスさまを知らないと言い張るペトロを振り向いて見つめられたという場面を思い出させます(ルカ22章)。この時も、イエスさまはペトロを責めていらっしゃるのではありません。弟子に裏切られたという悲しみ、痛みはあったでしょう。しかし、イエスさまはまさにそのような罪人を救うために、罪の赦しを与えるために、エルサレムへと、十字架の死へと歩まれたのです。復活のイエスさまに出会って、このことを信じたペトロは今度こそ本物の弟子としてその生涯を生きたのです。
この女性もそうです。彼女の関心は病いがいやされたことにしかありませんでした。イエスさまからただ奇跡をもらえればそれでよかったのです。しかし、イエスさまの愛のまなざしに触れた時、彼女は自分のすべてをイエスさまの前に投げ出し、砕けた心をもってひれ伏したのです。彼女は癒し以上のものを与えられたのです。「救い」です。彼女もまた復活の喜びを味わっているのです。12年間、ただ苦しみ、暗い心で愚痴だけで生きていた人物が、新しく元気に生きていけるようになったのです。いくらこの病気が治ったからと言って、ほかの病気にかからないという保証はありません。しかし、「私は神さまの愛のうちにある」という信仰が、彼女の生活を変えたのです。「安心して行きなさい」というイエスさまのことばによって、その後どんな苦しみ痛みが待っていようとも、この方が私の傍らに立って下さっているという信頼が彼女を揺るがすことはありませんでした。
 従って、これは決して奇跡物語ではありません。復活したヤイロの娘も、やがて死ぬでしょう。ヤイロの娘が得たものも同じでした。詩編の139編に次のような一節があります。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、御手をもって私を導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
振り返って、この病いに身も心も弱り、苦しんでいる女性に深い愛を持って目を留められたイエスさまは、私たち一人一人にも愛のまなざしを注いで下さっているのです。
「安心して行きなさい」というみ言葉は、この私にも与えられていることを信じ、まことの平安のうちに、これからの日々を歩んで行きましょう。
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2012/07/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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