津田沼教会 牧師のメッセージ
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「おのずと大きくなる神の国」(マルコ4:26-34)
マルコ4:26-34、2012・07・15、聖霊降臨後第7主日(典礼色―緑―)、エゼキエル書17:22-24、コリントの信徒への手紙二6:1-18

マルコによる福音書4:26-34
 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。







説教「おのずと大きくなる神の国」(マルコ4:26-34)
 
「おのずと大きくなる神の国」というふうに、本日の説教題をつけておきました。神の国とは、神の支配、あるいは、その支配する領域といった意味であります。主イエスが、ガリラヤで神の国を宣べ伝えて以来、2000年近くが経ちます。それは、この地球に住む人全体が、教会に入れられ、キリスト者になるということではありません。ぼつぼつ、神の支配は、私たちの日常生活の中で、知らないうちに大きくなるのであります。世界には、キリスト教以外にもユダヤ教やイスラム教や仏教や、あるいは、日本では神道等が根付いております。それらのすぐれた宗教を、キリスト教が圧倒し、教会がこの世界の大多数者となるというわけではありません。しかし、神の国、すなわち、神の支配は少しずつ、おのずと、世界にゆきわたっていくというのであります。そのことは、主の宣教と共に既に始まっているのであります。
さて、本日の福音の部分は、3つに別れるのであります。彼は語られておられました。まず、神の国は次のように譬えられる。すなわち、ある人、ある農夫が、種を蒔き、それを土の上に投じる。そして、夜昼、寝たり、起きたりしている間に、彼は知らないが、その種は、芽を出し、成長する。おのずと、その土は、実をもたらし、まず、茎、次に、穂、また次には、穂の中に豊かな穀物をもたらすのであります。で、その実がもたらされたとき、農夫はただちに小鎌を入れる。なぜなら、収穫のときが来たからであると言われるのであります。私たちの努力や熱心によって、この成長がもたらされるのではなく、おのずと、雨風や、日光の力を通して、農夫がどうやってか、その秘密を知らないうちに、神の成長させる力によって、豊かな実がもたらせられるのであります。
私たちは、蒔かれる種、神のみ言葉も、おのずと実を結ぶことを信頼して、宣教に励むのであります。寝たり起きたりする日常生活の中で、蒔かれた神の言葉が結実するのを待つのであり、忍耐が必要なのであります。収穫の時とは、終末の時、すなわち私たちの死のとき、あるいは、人類の最後の審判の時かもしれません。天国と地獄に分けられる時かもしれません。それまで、忍耐強く、ただ、私たちは、み言葉の種を、日常の中で、家庭の中で、地域の中で、あるいは、職場において、精一杯、種蒔きをしていけばよいのであります。収穫の時は、主イエスの宣教において、既に到来しているとも、考えられます。
次に、また、彼は語られていました。主は、神の国を私たちはどのように譬えようか、私たちは、それにどんな譬えを置こうかと言われた後、それは、からし種のようだと言われます。神の国を私たちが何に、あるいはどのように譬えるかは、非常に困難なのであります。主は、その困難を私たちによくよく提示した上で、からし種の成長に譬えられるのであります。からし種は、パレスチナのその当時、最少の種だと信じられていました。実際にはそれよりももっと小さな種があるとも言われます。しかし、主イエスも、あなた方にからし種ほどの信仰があれば、この山に海へと移れといえば、そのとおりになると言われたり、からし種ほどの信仰があなた方にあれば、このいちじくの木に海に植えられよと言えばその通りになると、当時の格言のように使われていたからし種を用いた表現を使われたのであります。からし種の木は成長が速く、すぐ3メートル50センチ以上にもなり、津田沼教会でも生えていて、つい先だって、大きくなりすぎたので、先日、教会員の方にはみ出た部分を切り取っていただきました。その成長の速さには驚かされます。
主は、からし種の木は、蒔かれると、伸びて、野菜の中でも最も大きなものとなり、大きな枝をもたらし、その木陰に空の鳥が巣を張るほどになると言われます。世界の多くの国民が、主イエスの宣教において、主ご自身のもとに、集められることになることを、主は予期しておられたのかもしれません。神の国は、神の支配は主イエスのご到来とその宣教において、外見上は、平凡で取るに足らないささいな現実に思われたかもしれませんが、既に始まっていたのであります。
私たちもからし種ほどの信仰であっても、神の蒔かれたみ言葉に生涯信頼していきたいものであります。家庭でも、社会でも、小さなことに頭を悩まし、神の国、神が支配してくれる領域は、非常に狭いと感じられる弱く、愚かな私たちでありますが、主イエスのこの譬えに、希望を見出して歩んで生きたいものです。
最後に、主は、そのような譬えどもでもって、人々、すなわち群衆の聞く力に応じて彼らにみ言葉を語っておられました。で、譬えなしには、何も語ってはおられなかったのですが、ご自分の弟子たちには、ひそかに、すべてのことを説明なさっていたというのであります。
私たちは、聖書を通して、譬えを聞かされ、主イエスの語られた神の国の譬えの奥義を、一つ一つ詳しく説明されるという特権を与えられています。聖書の解き明かしを通して、主の譬えの真意を、私たちは、教会において、特に主日説教を通して、知らされているのであります。聖書、主の語られた福音を悟り、神の支配を悟って、無理解や憎しみや、無関心を乗り越えて、み言葉に即した、充実した家庭生活、社会生活、そして、信仰生活を送りたいものです。
神の国、神の支配は、人間の側の努力や熱心によって、実現するものではなく、主イエスの宣教の開始と共に、私たちの知らない間に、切迫して広がり、深まっていくものであります。農夫が、平凡な日常生活を送り、夜昼、寝起きする間に、蒔かれた種は、芽を出し、茎をもたらし、穂をもたらし、その穂の中に、豊かな実を結び、すると早速、彼は鎌を入れるのであります。収穫の時が、来たからであります。
また、からし種が、蒔かれる時に、この地上の野菜、草本植物の最も小さな種であっても、どんどん伸びて行き、その枝の木陰に、空の鳥が巣を作ることができるほどに、大きくなるのであります。
私たちは、この神の国の譬えを、主イエスの宣教の始まりと共に、彼のそばにいた弟子たち同様にその真意を見出すことができるのであります。そして、マルコ福音書の記事4:26-34の記事を通して、神の支配が切迫しており、主イエスと共に、それがすでに、始まっていることを知らされています。
ルターは、宗教改革を進めている時に、同志メランヒトンと一緒に、ビールを飲んでいるときにも、神の国は進んでいると言って、み言葉の浸透に信頼していたと言います。
私たちも、宣教のために、できる限りのことをしなければなりませんが、神の国を成長させてくださるのは、神御自身であり、また、天に上げられ、父なる神の右の座についておられる主イエスであり、そこから、送られてくる聖霊という三位一体の神であります。
私たちは、神の国の成長のために、神の宣教に選ばれている土の器に過ぎません。主イエスのなされた神の国の譬えを、主御自身によって明らかにされながら、隣人へ、社会へ、み言葉の種蒔きをする者として、平凡な日常生活において、主イエスに用いられる器とされていきましょう。そして、特に主イエスのみ言葉に励まされて、神の国、神の支配が、おのずと大きくなることを信じて、生かされていきたい者であります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2012/07/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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