津田沼教会 牧師のメッセージ
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「新しいぶどう酒は新しい革袋に」(マルコ2:18-22)
マルコ2:18-22、2012・06・17、聖霊降臨後第3主日(典礼色―緑―)、ホセア書2:16-22、コリントの信徒への手紙二3:1-6

マルコによる福音書2:18-22
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」




説教「新しいぶどう酒は新しい革袋に」(マルコ2:18-22)

先週は、主イエスが、徴税人レビを弟子として召し出し、徴税人レビの家で罪人たち、徴税人たち大勢と、弟子たちと共に主が食事をしたことに対して、ファリサイ派が批判したとき、「私が来たのは、正しい人たちを招くためではなく、罪人たちを招くためである」と言われた論争物語が読まれました。
本日の福音記事は、それに続くマルコ福音書2:18-22の論争物語であります。「ファリサイ派の弟子たちや、洗礼者ヨハネの弟子たちは、断食をしているのになぜ、あなたの弟子たちは、断食しないのですか」と、人々がやって来て質問します。それに対して、主イエスは、「既に、花婿を持っているのに、花婿の室にいる息子たち、即ち、招かれた客たちである弟子たちは、断食できるだろうか、それはできない」と言われるのであります。
主イエスの到来において、待たれていた神の国、神の支配は既に来ており、既に喜びの時が成就しているのであります。しかし、「花婿が取り去られるときが来る。その時、その日において、彼らは断食するだろう」と、言われるのです。それは、主イエスが弟子たちのもとから十字架の死により命を奪われ、取り去られるときであります。そのときには、花婿の死を悲しみ、主イエスの弟子たちは喪に服して泣き、断食するであろうと答えられたのであります。主イエスは花婿であり、私たち教会はその花嫁であります。
旧約聖書において、約束されていた花婿が、お出でになり、喜びの祝宴、婚宴の時が始まっているこの時に、どうして、彼の弟子たちは断食などできようか、彼がいる限り断食することはできないと主イエスは反論なさるのであります。
そして、主イエスは、続けて二つの類比・たとえの言葉を、人々に提示し、差し出すのであります。「だれも、古い衣服・外套に新しい織り立ての布を継ぎ当てとして縫い付けたりはしない。さもなければ、新しい布地が縮かみ、その糸も引っ張って、その部分は浮き上がり、古い衣服の穴、裂け目は、もっと大きく成る」と言われるのであります。すなわち、古い衣服に継ぎを当てるには、水につけた縮んだ布を当てるものである。そうすれば、古い外套は、よりよくフィットし、新しい衣服・外套以上にかえって着心地もよくなる場合もあるのであります。 
それに続けて、主は、「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりしない。さもないと、ぶどう酒も皮袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるべきだ」と言われます。新しいぶどう酒は醗酵して、使い古して固く張り切った、しかし脆くなっている革袋どもを張り裂き、両方とも駄目になると言われるのであります。
主イエスの弟子たちの断食は、まったく新しい、自由な特質を持っており、洗礼者ヨハネの弟子たちや、ファリサイ派の弟子たちの憂鬱で事細かなことにこだわる形式的で、かつ徒に厳格な断食とは両立しがたく、相容れないものであると言われるのであります。
また、時と場合に応じては、古いものと新しいものを自由に取り入れる新しい生き方が、主イエスの到来によってもたらされたのであります。主イエスは、必ずしも、古いものは常に良くなく、新しいものが良いと主張されているわけではありません。古い、使い慣れた外套の方が、動きやすく、機能的な場合も間々あるように、古い旧約聖書が、主イエスの登場によって、まったく無用になったわけでは、勿論ありません。たとえば、旧約聖書の中にある詩編は、今なお、キリスト教会で礼拝や式文の中で、有用なものとして用いられ、大事にされているのであります。それどころか、主イエスは、旧約の律法を廃止するために来られたのではなく、それを完成するために、お出でになられたのであります。主は、律法の一点一角もないがしろにされてはならず、また、あなた方の義は、律法学者たちの義に優っていなければ、あなた方は神の国に入ることはできないと弟子たちに言われました。
しかし、主イエスの弟子たちと、洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちとの間には、根本的に相容れない相違があるのであります。それは、主イエスの到来によって、与えられた教会の新しい生き方、生活状況と、それ以前の、特にファリサイ派どもの宗教的に制限的な律法に捕われた生き方の間には、妥協の余地はまったくないということであります。私たちは、新しいぶどう酒を注ぎ入れるのにふさわしい新しい品質の革袋を整え、用意しなければならないのであります。私たち主イエスの弟子たちの断食は、罪から私たちを自由へと解放する主の再臨を目を覚まして待ち望む喜ばしきものへと、大変革されている、新しい質の断食であり、主の十字架と復活を知らされている者の喜びの断食なのであります。アーメン。

○ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校講壇奉仕
2012年7月8日 (日)午後1時~2時半

講演会「少子・高齢社会と社会福祉」
講師:金子和夫先生

「高齢者でも、障がいを持っていても、いわゆるひとり親家庭であっても、地域で暮らしていくために何が大切なのでしょうか。特に高齢者が置かれている現状と政策的対応、そして地域の眼、地域の絆などについて一緒に考えたいと思います。」

<講師のプロフィール>
ルーテル学院大学教授・社会福祉学科長
趣味はスポーツ。特に野球。少年野球の指導や中学野球の審判をやっています。今の関心事は、福祉系高校卒業生を含めた福祉労働全般に関心があります。

○当日の午前10時半~11時半、聖霊降臨後第6主日礼拝
説教「サタンを追い出しに来られた主イエス」渡辺賢次牧師
   (マルコによる福音書3:20~30)
どなたも、主日礼拝、午後の講演会、いずれにも、どうぞご出席ください。
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2012/06/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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