津田沼教会 牧師のメッセージ
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「み言葉にとどまる」(ヨハネ15:1-10)
ヨハネ15:1-10、2012・05・06、復活節第4主日(典礼色―白―聖餐式)、使徒言行録8:26-40、ヨハネの手紙一3:18-24


ヨハネによる福音書15:1-10

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ばないものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。




説教「み言葉にとどまる」(ヨハネ15:1-10)

今朝の与えられています福音はヨハネ15:1-10であります。どうして、復活節の喜びの時に、この告別説教といわれる部分の一節が与えられているのでしょうか。しばらく、ご一緒に考えてみたいと思います。
さて、先週は、全国総会が開かれて4日ほど、総武線に乗って、大久保の東京教会に通いました。ある夕方、全国総会の日の帰りの大勢の乗客の電車内で、私のすぐ後ろの方で二人の若者が話をしていまして、聖書がある所に置かれてあって、何となく開いて読んでいると、そこには、主イエスがペトロに湖に行って魚を釣れ、そうすれば、その魚の口の中に、銀貨一枚が入っているだろう、それを取って、税金として納めなさい等ということが書いてあるが、いかがなものかというふうな話していました。私は、ミニカラーをはずして、いましたので、後ろに牧師がいるとは気づかなかったことでしょう。
私たちは、主日の祈りにもありましたように、激動の現代日本社会に生かされています。その中で、キリスト教信仰を持って一生を生き通すということは、牧師もですが、信徒の方々にとってはより以上に、言語を絶した試練の中を生きていくことを意味します。確かに明治時代や、戦前に比べれば、信仰の自由が保障され、まだ、ましになったと思いますが、1週間の間にも、私たちは、信仰に生きる試練の中を何とか生きているというのが、現実かもしれません。
しかし、私たちは、その中で一人でも多くの人に福音を告げ広め、教会に導くという尊い使命に与っているのであります。仏教を始め、他の宗教もあります。あるいは、無神論ではなくても、ある信条を守って生きている大勢の日本人同胞がいます。
私たちは、そんな中で、キリスト教信仰に導かれて、生きていますが、無教会派の人であったか誰であったか、著名な人が、キリスト教なしに生きてゆける人々は強いと思う、自分にはそれが不思議であると、書かれていたのを記憶しています。
しかし、信仰を持って生きることは、決して弱い生き方ではなく、私は、それのほうがずっと強さを要求されるのではないかと思うのです。
今日の聖書では、主は、「私はまことのぶどうの木、信頼できるぶどうの木、そして、私の父なる神は農夫、ぶどう園の剪定する者であり、あなた方は、ぶどうの木の枝である」と、いきなり、言われているのであります。そして、実を生まない枝は、取り除き、実をもたらす枝はさらに、剪定して、もっと豊に実を生むものとされるというのであります。イスラエルの12弟子たちにとって、ぶどうの木は、イスラエルの民のシンボルでありましたから、この譬え、表現は私たち以上に実感を持って感じられたことでしょう。主は、私たちは、主につながっていなければ、実を豊に結ぶことはできず、主を離れてしまえば、彼しぼみ、火の中に投げ出されて、燃やされるといわれます。
主から離れるとき、罰と裁きが待っているのであります。しかし、主のみ言葉に、キリストにつながっていれば、豊かに実を結び、主の弟子として神の栄光を表わすことになると言われるのであります。
私たちが、主イエスというぶどうの木につながっているならば、必ずや、私たちは豊かな実を生む枝であることが出来ると約束して下さっているのですから、安心して、み言葉から、離れないようにすれば、大丈夫だと保証して下さっているのであります。
私たちは、礼拝につながり、聖餐に与り、み言葉にとどまり続けて、人々を、家族を愛し、一人でも多くの人々を主イエスにある幸いに導く責任と特権をも与えられているのであります。この復活節の喜ばしい季節に、主が残してくださったみ言葉にとどまり、キリストというぶどうの木につながる枝として、新たな1週間へとこの場から派遣されていきましょう。アーメン。

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2012/05/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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