津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリストに選ばれた私」(ヨハネ15:11-17)内海望牧師
ヨハネ15:11-17、2012・05・13、復活節第5主日(典礼色―白―)、使徒言行録11:19-30、ヨハネの手紙一4:1-12

ヨハネによる福音書15:11-17
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。


説教「キリストに選ばれた私」(ヨハネ15:11-17)内海望牧師

 この個所を読んで違和感を覚えるのは「互いに愛し合いなさい」と「愛すること」が命じられている点です。「愛する」ということは命じられていることでなく、自発的な自然の情ではないでしょうか。
 神さまは人間を「互いに心を通い合わせる存在」として創造して下さいました。私たちは罪人ですが、それでも「愛し合うこと」は知っています。今度の大震災に際しても何百万もの人々が誰の指示にもよらず、自発的に支援のために被災地に駆けつけています。被造物としての人間の良い面が表れたと言えましょう。これは、人間共通の自然の情と言ってよいでしょう。従って、洋の東西を問わず、古代から隣人愛を説く格言は数多く見られます。「友のために命を捨てること」の尊さを語る文章も数多くあります。隣人愛という言葉は決して聖書の専有物ではありません。イエスさまもやや皮肉に「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている」と自然の情としての愛を語っていらっしゃいます。(マタイ福音書7章)
 しかし、イエスさまはここで「愛し合いなさい」と命じていらっしゃるのです。どうしてこのような命令をなさるのでしょうか。この謎を解く鍵は「私があなた方を愛したように」という言葉にあります。イエスさまが私たちを愛して下さったように「互いに愛し合いなさい」とおっしゃっているのです。ここにおいて愛の意味が全く違ってくるのです。
 それではイエスさまは私をどのように愛して下さっているのでしょうか。
 イエスさまは弟子たちに「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」とおっしゃています。イエスさまが弟子とされたのであって、弟子たちがイエスさまを自分たちの主としたのではないのです。そして、「君たちはもはや僕ではなく、友である」とまでおっしゃっているのです。私たちは当然のように「慈しみ深き友なるイエスは」と歌いますが、決して当然のことではありません。私たちはイエスさまの前から逃げ隠れることはあっても友だちになれるような人間ではありません。このことは誰よりも私たち自身がよく知っています。毎週の礼拝において私たちは数えきれないほど自分の犯した罪を告白せずにはおられないような人間です。しかし、それでもなおイエスさまは私たちを友と呼んで下さるのです。
 弟子たちの召天の記事を読むと、イエスさまが先ず漁師であるペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネに声をかけて弟子とされたのであって、反対ではありません。弟子として得あらばれた理由は何も分からずに彼らはイエスさまに従っていったのです。ルカによる福音書によるとペトロなどは「主よ、私から離れて下さい。私は罪人なのです」と叫んでいます。自分がイエスさまの弟子になるなどとても相応しくないと直感的に感じたのでしょう。しかし、まさにその相応しくないペトロを選んで下さったのがイエスさまなのです。申命記には次のような言葉があります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただあなたたちに対する神の愛のゆえに・・・」と「神さまの選び」について書かれています(申命記7章6節以下。292ページ)。「君たちを宝の民として選んだのは、何か君たちに取り柄があると言うことでなく、ただ神の愛のゆえにである」という意味です。
 神さまの愛には「愛する理由」がないのです。私たちは神さまから愛されない理由は数え上げることが出来ます。ひねくれているし、意地悪いし、他人の欠点ばかりあげつらうし、嫉妬深く、いつも憎しみを心に持っているなどパウロがガラテヤ書で「悪のカタログ」に列挙しているような心を私たちも皆持っているのです。それでも、イエスさまは私たちを「友」と呼ぶ弟子の中に加えて下さっているのです。ヘブライ人の手紙には「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされないで」とすべての人のために死んで下さったイエスさまのことを賛美しています。私たち罪人に寄り添い、「友」どころか「兄弟」となって下さっているのです。
 先週の日課でも、イエスさまは何の理由も言わず、ただ端的に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と一方的に宣言されるのです。そうしないと私たちは枯れて切り倒されてしまうからです。私たちが「枝にして下さい」と願ったからではなく、イエスさまが枝として下さったのです。今日の第二の日課であるヨハネの手紙一4章10節には「私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と書かれています。滅ぼさるべき罪人、「外に投げ捨てられるべき枝」を救うために御自分の命を捨てて下さったのがイエスさまの愛なのです。
 イエスさまにとって「友であること」「兄弟となること」とは、まさに罪人のために御自分の命を捨てるという生き方であったのです。この点に至って、イエスさまのおっしゃる「友のために命を捨てる」という言葉はもろもろの格言をはるかに越えた全く新しい雄大な意味を持つ言葉となったのです。「友」という言葉は、イエスさまにとって「敵」「罪人」と同意語なのです。しかも、イエスさまは、その罪人である私たちの兄弟と呼ばれることを恥としない、仲間となってくださったのです。そのような愛によって私たちもイエスさまの弟子として選ばれたのです。これに優る光栄ある喜びはありません。
 このような愛は私たちが経験したことのない愛です。私たちの人間の愛には結局のところ打算があり、「自分の気に入った人を愛すると言う」利己的な面を取り除くことは出来ないのです。だからこそ、イエスさまは「愛し合いなさい」と命令されるのです。これは決して自然にわき出るようなものではありません。その意味では、イエスさまは、私たちの用いている「愛」という概念を打ち砕かれたと言ってよいでしょう。イエスさまは「自分を愛してくれる人を愛したからとてどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしている」と、いわゆる隣人愛を批判していらっしゃいます。
 しかし、問題は、私たちがどうして、イエスさまがなさったように互いに愛し合うことが出来るかという点にあります。これまで考えて来たように、私たちは犯した罪を数え上げることすら出来ないような罪人であり、私たちの愛には打算があり、利己的です。とうていイエスさまのように人を愛することは出来ません。今日のイエスさまの愛の命令は、私たちを苦しめるだけなのでしょうか。
 決してそうではありません。私たち罪人を友と呼び、兄弟とし、私たちの罪を贖うために命を捨てて下さったイエスさまの愛に触れる時、私たちの心にはあふれるばかりの感謝と喜びが起こって来ます。ルターは「キリスト者の自由」の最後に、神さまの愛は、キリストから我々の中へ、更に又、我々から他の人々の中へと「流れ込んで行く」と書いています。私が素晴らしい愛の実践者となることは出来ません。しかし、キリストの愛が私を通して人々の中へ流れ込んで行くのです。あるいは、「キリストの愛に触れた時、人は絶えず生き生きと何か善いことをなさずにはおれない」ともルターは言っています。そこには「自分が何か善い事をする」という感覚はありません。イエスさまの愛が私たちを揺り動かすのです。このイエスさまの愛は、私たちの人生に力を与え、方向を与えてくれるのです。つまり生き方が変えられるのです。
 この頃、しみじみ思うことがあります。私たちには、イエスさまの愛の高さ深さを知ることが出来ないと言うことです。毎朝、赦された罪の大きさに驚き、感謝することしかありません。赦される罪の大きさに驚くばかりです。その意味では、私たちは終わりの時までイエスさまの愛の大きさを完全に知ることは出来ないでしょう。しかし、それでも、その豊かさを経験し味わうことは出来るのです。その時、「互いに愛し合いなさい」という命令が命令でなくなるのです。「自分が何か善いことをする」と努力するのでなく、「主よ、用いて下さって感謝します」という祈りが口をついて出て来るような朝を迎えることが出来るのです。確かに、イエスさまは、「この私のためにも死んで下さった」のです。「決して見捨てない」と約束して下さったのです。ですから、「慈しみ深き友なるイエスは」と歌ってよいのです。私たちの救いの確かさはイエスさまの十字架の愛にあるのです。この確かさに立って、平和と感謝、喜びと希望を持って生きて行きましょう。



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2012/05/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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