津田沼教会 牧師のメッセージ
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「復活の主を伝えた人々」(マルコ16:9-18)原拓也牧師
マルコ16:9-18、2012・04・15、復活後第1主日(典礼色―白―)使徒言行録3:11-26、ヨハネの手紙一5:1-5

マルコによる福音書16:9-18
 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。

 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界へ行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」


説教要旨「復活の主を伝えた人々」(マルコ16:9~18)原拓也牧師

 日課のマルコ福音書の個所には〔・・・〕が付けられていて(20節まで)、8節までとは区別されている。これはこの部分が特に主要な写本とされている「シナイ写本」と「ヴァチカン写本」の載っていないためである。

他の福音が復活日の出来事についてある程度詳しく書いているのに、マルコには、何故この個所が無いのか、その理由として、二つのことが考えられている。
1、 この部分が、(腐食などの理由によって)失われてしまった。
2、 何らかの理由(迫害が身近に迫ってきたなど)の為に、書くことが出来なくなった。
 それでは、「何故、これが追記されたのか?」「何故、これほど簡潔に書かれたのか?」結論的に言うと次のように言えるのではないか。
 マルコ福音書の目的は、1章1節にあるように「神の子イエス・キリストの福音」を伝えることである。それ故、16章8節の「婦人たちは・・・逃げ去った。・・・そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」で終わったのでは福音にならない。福音を伝えるためには、福音の記事を欠くことは出来ないからである。・・・キリストの生涯は十字架で終わるものではなく、復活をもって終わらねばならない。それが「福音」を伝えることである。・・・パウロが、私が最も大切なこととして伝えたのは・・・十字架の死と復活であった、と言っている通りである。(コリント第一15:2~5)。そして福音は、“死に打ち勝ち、永遠の命を勝ち取られた方、イエス・キリストによる罪の赦しと神の国の約束”を抜きにしては成り立たない。そして理由がどうであれ、キリスト教会はこの日課の部分を含めたこの福音書を「聖書」として来たのである。

マルコによる福音書の日課(16:9~18)
 この部分は他の福音書などと比べると極めて簡潔に記されている。素朴と言うか、ぶっきらぼうと言っても良いほどであるが、著者は“これだけは伝えなければならない”と考えた事を書き遺したのであろう。そのような視点から今日の日課を見てゆきたい。

復活の朝=「まず」:何よりも、第一に。
   七つの悪霊に憑かれていた女マグダラのマリアに。
     重症の病、霊的(人格的)障害を癒された人。=罪の闇が深いほど、十字架の
光は輝きを増す。・・・この経験をした婦人。
   しかし、弟子たちは信じなかった。
    ヘブル 4:2参照
復活の夕べ=二人の無名の弟子たちに、
    キリストを伝える人は、キリストの弟子であれば良いのであって、個人の名前は
   必要とされていない。
   しかし、弟子たちは信じなかった。
  この時主の復活を伝えたのがマグダラのマリアや、無名の弟子ではなくペトロやヨハ 
  ネ或いはトマスであれば、彼らはどう反応したであろうか?
   再び ヘブル 4:2 が強調されなければならない。
「その後」いつの事か (夜?)
食事の席で=イエスはご自分が生きておられる事を明らかにされ、弟子たちの不信仰と頑なな心を咎められた。それは、信じない者にならないで、信じる者になれとの教えであり、その後、全世界に行って、全ての造られたものに福音を伝えよ、とお命じになられた。

主はあえて、罪人、名もなき人、不信の者などを、宣教の業にお召しになる。
「無きに等しいものをあえて選ばれた」(コリント第一1章28節=口語訳)
何故? 彼らが語る福音が彼らのものでなく、イエス・キリストご自身であることが明らかにされるために、であります。
 また、パウロはこうも言います。「主は、わたしの・・・・力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだと言われました。・・・だから、・・・大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」と。

復活の主とキリストの教会
 今日の教会は、社会に向かってクリスマスは語っても復活については殆ど語らないのではないか?愚かなたわごとと思われるのを恐れてでしょうか。弱い者、罪人、無力な人を選ばれた神は、その福音をキリストの教会に委ねていらっしゃる。
 主がエルサレムにお入りになる時、弟子を通してお語りになった「主がお入り用なのです」という言葉は、私たち一人一人に語られているお言葉でもあるのです。
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2012/04/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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