津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリストの愛の高さ、深さ」(ヨハネ12:44-50)内海望牧師
ヨハネ12:44-50、2012・03・25、四旬節第5主日(典礼色―紫―)エレミヤ書31:31-34、、
エフェソの信徒への手紙3:14-21

ヨハネによる福音書12:44-50
 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」




説教「キリストの愛の広さ、深さ」(ヨハネ12:44-50)内海望牧師

私たちは、キリストの十字架の死に思いを集中する四旬節の時を過ごしています。改めてイエス・キリストの十字架を見つめてみたいと思います。
信仰とは「何かを考えること」ではありません。私たちの全人格をもって神さまの前に出ることです。その怖れの中でイエス・キリストの十字架の愛を経験することなのです。
キリストの十字架の愛を経験するということは、感嘆符でしか表現できないほど大きなものです。今日の第二の日課であるエフェソ書3章18節でも「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであることか」とその愛の人知を越えた大きさに感嘆の声をあげています。ところが、私たちは、いつの間にか、キリストの十字架を私たちの理解できる範囲に縮めてしまってはいないでしょうか。あまりにも安易に「救い」を語りすぎてはいないでしょうか。
さて、今日の福音書に目を留めてみます。12章全体に非常に切迫した雰囲気が感じられます。イエスさまは「私の時はまだ来ていない」と言い続けてこられましたが、荘重なエルサレム入城の後、今やついに神の子の時が来たと宣言なさるのです。イエスさまは「今、わたしの心は騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、私はこの時のために来たのだ。」(12章27節)と新たな決意を持って十字架への道をしっかりと歩み始められました。また、44節には、「イエスは叫んで言われた」と記されています。「叫んで」という一句に万感の思いがこめられています。「救ってください」「叫ぶ」という言葉は尋常ではない緊張を示しています。それは当然です。イエスさまの歩みはまっすぐに十字架に向かっているからです。
ところが、ここで、イエスさまは「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためでなく、世を救うために来たからである」とおっしゃっています。イエスさまは「人々は彼を信じなかった」(イザヤ書53章1節)という辛さの只中にあります。しかし、滅ぶべき罪人が一人も滅びないようにと今ご自分の命を捨てようと十字架へ向かっていらっしゃるのです。この「一人も滅びないように」というイエスさまのみ言葉を聞くとき、私たちはいつも感動を新たにします。「一人も滅びないで」ということは罪人も含むという意味です。決していわゆる善男善女だけの救いではありません。事実、この後すぐイエスを見捨てて逃げてしまうような弟子たちに対して僕となって足を洗って下さるのがイエスさまなのです。
ところが、私たちが驚くのは、イエスさまの覚悟、緊張に比べると、弟子たちはいい加減です。ルカ福音書によると、最後の晩餐の後でも12弟子たちは「誰がいちばん偉いか」と言い争っているし、ゲッセマネの園ではイエスさまが血の汗を滴らせながら祈っていらっしゃるのに弟子たちは眠りこけているのです。しかも、いよいよイエスさまが逮捕されてしまったとき、12弟子たちは皆イエスさまを見捨てて逃げてしまったとマタイは伝えています。ペトロなどは「イエスさまを知らない」と3度まで断言するのです。イエスさまは全くの孤独のなかで十字架を負わなければならなかったのです。12弟子は他の弟子たちとは違います。ずっとイエスさまと起居を共にし、イエスさまのなさったこと、語られたことを身近かに目撃していたのです。
しかし、私たちに12弟子を非難する資格はありません。私たちでも自分の身が危うくなったら友だちでも、先生でも見捨てて自分の身を守ることを第一にしてしまうような利己的な人間なのです。裏切る者なのです。12弟子の姿を見る時、「それは私の姿だ」と痛みの中で告白しなければならないのが私たちの姿なのです。
今日の第一の日課であるエレミヤ書31章31節以下を読んでみましょう。ここは新しい契約について書かれている聖書でも最も大切な個所です。神さまはここで「新しい契約は『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す』」とおっしゃっています。石に刻まれた律法ではないのです。決して見失わないように心に刻みつけようとおっしゃっているのです。そうでもしなければ人間はすぐに神さまの約束を消し去ってしまうからです。逆に言うと、それほど人間に罪は深く私たちに食い込んでいるのです。エレミヤは人間の罪が「心の板に、祭壇の角に鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがね(鏨)で刻み込まれている」と語っています。エレミヤはそれほど人間の心に深く食い込んでいる罪の恐ろしさを経験しているのです。消しゴムで消したり、洗剤で洗い流せたりするものではないのです。それでもなおイエスさまは不信仰な罪人を救うためにご自身の命を捨てようと歩み続けていらっしゃるのです。私たちは自分の罪を小さくし、ペトロのようにイエスさまに「命までお捨てにならなくても」というような人間なのです。イエスさまが苦しんでいらっしゃるのは他ならぬこの私のためなのに。
 パウロはそのような自分の姿を見て、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。・・・私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」と絶望の声をあげています。この個所は人類の最も悲痛な叫びであると言った人がいます。確かにそうです。私たちは年を重ねれば重ねるほど自分の罪の深さに気づかされます。それでも私たちは何とかなるさとばかり、素知らぬ顔をして生きているのです。ここで私たちは罪と裁きの厳粛さを思わなければなりません。パウロは神さまの憐れみをいいことにして、「その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」とローマの信徒に、迫っています(2:4)。あるいはガラテヤの信徒に向かって「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。(6:7)」とも語っています。私たちは、「神の愛」「キリストの十字架の愛」という言葉に慣れ切ってしまって、神さまの裁きを侮ってしまってはいないでしょうか。十字架に向かうイエスさまの厳しさに比べて、私たちの態度はあまりにもいい加減ではないでしょうか。今、イエスさまは、十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ぶどん底までいらっしゃるのに。
ところが、(大丈夫!)そのような私たちが一人も滅びないようにと、イエスさまは最後まで歩み続けて下さったのです。そして、「父よ、彼らをお赦し下さい」と私たち罪人のために祈りつつ「成し遂げられた」との一言を残して息を引き取られたのです。ヨハネ福音書13章1節には「イエスは、この世から父のもとへ移る時が来たことを悟り、世にある弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。分かりにくい文章ですが、文語訳では「弟子たちを極みまで愛された」と簡潔に記されています。分かりやすいし、原文にも忠実です。十字架上のイエスさまの言葉を聞く時、まさに「極みまで」罪人を愛し抜かれたイエスさまの姿を見、感動させられます。罪人を救うための犠牲はこれほど大きいのです。
パウロは「あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ」(コリント一6:20)と語っています。私を救うためにイエスさまはご自分の命を身代金として与えて下さったのです。この事実を私たちは真剣に受け取りたいと思います。そして、もっと真剣にこの恵みを受け取って行きたいと思います。パウロは「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」(ローマ5:20)と語っています。イエス・キリストの十字架の愛は感嘆符でしか語られないと言った所以です。キリスト・イエスの愛の広さ、深さは私たちにとって測り知れなく大きなものなのです。しかし、私たちが罪と裁きの厳粛さを真剣に受け止め、同時にイエスさまの十字架の愛を真剣に受け止める時、本物の罪の赦しがどんなに大きいものであるかを知るのです。満ち溢れる喜びを経験することができるのは確かです。復活の輝きに溢れたイースターを待ち望みつつ日々を歩みましょう。
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2012/03/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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