津田沼教会 牧師のメッセージ
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「弟子たちの無理解」(マルコ10:32-45)
マルコ10:32-45、2012・03・04、四旬節第2主日(典礼色―紫―聖餐式)、創世記28:10-22、ローマの信徒への手紙4:13-17a

マルコによる福音書10:32-45
 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」





説教「弟子たちの無理解」(マルコ10:32-45)

四旬節第2主日を迎えました。先週の「荒れ野での40日間の誘惑」に引き続いて、今朝は、マルコ10:32-45の記事が与えられています。第3の受難予告そして復活予告とそれに引き続いて起こった弟子たちの無理解に関わるエピソードが本日の福音であります。
「るうてる」の3月号には、一面に今朝の記事からの説教が掲載されています。「驚くべき十字架」と題して、10:45に焦点を当てた説教であります。
さて、今日の福音の出来事は、こういうものであります。彼ら、主イエスの一行は、初めてエルサレムを目指してその途上にありました。主イエスは先頭を導き歩み、それを見て、弟子たちはびっくりし、また、驚かされていました。主イエスは、彼らに言います。「見よ、私たちは、エルサレムに上っていく。人の子は、祭司長や律法学者から、死刑の宣告を受け、異邦人に引き渡される。異邦人は彼をあざけり、つばをはきかけ、殺す。そして、彼は三日後に起き上がる。」
マルコの描く弟子像は、主イエスを理解できない弟子たちをテーマとして掲げていることであります。彼らは、三度目の受難予告にもかかわらず、主イエスが何をなさろうとしているのか、また、主イエスが何を語っておられるのか、正確には分からないのであります。けれども、主のふるまい、そしてお言葉に、びっくりし、恐れさせられていました。主の進まれるエルサレムにおいて、何か大変なことが起ころうとしていることは、鈍い弟子たちも察知していたようであります。そして、その受難予告の直後に、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが近づき、自分たちがお願いすることをかなえてほしいと願い出るのであります。「主は何をしてほしいのか」と聞きますと、二人は、「あなたの栄光において、一人をあなたの右に、一人をあなたの左に座れるようにしてください」と願い出るのであります。主は、「あなた方は、何を要求しているのか分かっていない。あなた方は、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることが出来るか」と問われると、「はい、できます」と、答えるのであります。
杯は、詩編23編のように、喜びを表わすこともありますが、ここでは苦い杯、苦難あるいは、死を意味します。洗礼は、苦難、神から受ける裁きなどをここでは意味します。主は、「あなた方はその杯を飲み、その洗礼を受けることになるが、私の右、左に座ることは、私が与えることができるものではなく、用意されている者たちに与えられるのだ」と言われました。このやり取りを聞いていた他の10人の弟子たちは怒り始めます。すると、主は、彼らを呼び寄せて、言われるのです。
「あなた方は知っている、異邦人の支配者と考えられている者たちは彼らを支配し、えらい者たちは彼らに圧制を強いている。しかし、あなた方においてはそうではない。あなた方のうちで一番になりたい者は、すべての人のしもべ、ディアコノスになり、偉くなりたい者は、すべての人の奴隷になるであろう。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人のために、身代金として、その命を与えるためだからである」と、主は諭されたのであります。
多くの人のとなっていますが、これは一人に対してすべての人のためにという意味であります。私たち人類すべての人のために、主は命をささげるために来られたのであります。私たちは、自分がこの世界で、あるいは、仲間の中でどんな地位に、名誉にあるかと考えがちですが、主は、ご自身の模範に従って、どこまでも、ご自身が歩んでいく同じ苦難に従って来るように、私たちを招いておられます。マルコの描く弟子たちと同じように、私たちは、主イエスが十字架につく苦難の道を歩むことが難しい者であります。しかし、おずおずと、主イエスの道に、戸惑いを覚えながらもついて行くのが、私たちの現実、実際のところでありましょう。今日の第一の朗読の創世記28:10-22は、「ヤコブの見た夢」の出来事でありました。ヤコブは兄エサウに憎まれ、孤独と不安の中、ラバンおじさんを頼って、ハランに向かうのですが、その途上べテルと呼ばれることになる寂しい場所で、一夜を過ごすのでありますが、石の階段を神のみ使いたちが、上り下りする夢をみ、そして、ここにも主がおられると目覚めて石の枕を立てて、祭壇とし、油を注ぐのであります。欠点だらけのヤコブが、あるがままの姿で、主なる神に祝福を受けるのであります。
私たちも、欠点あり、弱さを抱えた人間でありますが、十字架に向かわれる主に従順に従っていくとき、思いがけない神の祝福に与れるのであります。

人知では、到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。









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2012/03/04(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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