津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ガリラヤの春」(マルコ1:14-20)
マルコ1:14-20、2012・01・22、顕現節第3主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書16:14-21、コリントの信徒への手紙一7:29-31

マルコによる福音書1:14-20
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。



説教「ガリラヤの春」(マルコ1:14-20)
 先週の「主の洗礼日」まで、主日の典礼色は、白でありましたが、本日からは、顕現節の第3主日でありますが、典礼色は緑になっています。マルコによる福音書の記事が、順を追って、読んでいかれます。
 今日は短い一節、マルコ1:14-20が与えられています。それは、さらに、1:14-15と1:16-20に分けることができます。最初のくだりは、「ヨハネが渡された後、イエスは、ガリラヤへと行かれた。そして、『時は満ちた、神の国は近づいた。なんじら、悔い改めて福音を信ぜよ』」というものでありました。この「時」というのは、カイロスという言葉で、絶好の好機というふうな特別な時を表わす言葉です。主イエスの到来の時とともに、神の支配が始まっているのであります。
 そういうふうにして、主イエスは、神の福音を、すなわち神の良き知らせを、ガリラヤで宣言し始めておられたのであります。多くの宗教、あるいは、文化、あるいは、科学の発展の中にありまして、主イエスが神の国を宣言して廻るという独一的な第一歩が踏み出されるのであります。もちろん、この出来事は、旧約聖書の長い長い預言、メシアが終末の時に来られるという約束の成就として、起こったのであります。
 さて、後段1:16‐20では、最初の弟子たちの召命という出来事が記されています。古代のガリラヤの漁師たちをどうして、主イエスは、よりによって彼らを選び召し出されたのか、太古の漁師たちを自然の中にその生業のままに、置いておくべきではなかったのかと、評論家の亀井勝一郎氏は書いているのであります。あるいは、それは、私たち、教会につながれた一人一人についても言えることかもしれません。主イエスに出会い、弟子として召されることがなかったならば、普通の日本人として、自然に、おおらかに、土っぽく、生きることができたのではないかとさえ、思えなくもないのであります。
 しかし、主イエスに一方的に声をかけられ、主イエスの弟子として、彼らは従ったのであります。そのことを、ペトロは、一生忘れることなく、マルコ福音書記者を通して、叙述しているのであります。
 彼らは、主イエスが、ガリラヤの海、実は湖でありますが、この海に沿って歩んでおられたとき、シモンと、アンデレの兄弟が、網を打っているのを目に留めるのであります。そして、「私に従ってきなさい。そうすれば、人間どもへの漁師たちになるように、私はあなた方をするであろう」と呼びかけるのであります。すると、彼らは、すぐに、網を後に置いて、従ったというのであります。ルカによる福音書の並行個所によれば、弟子となる前に、一定の関わり合いができており、主イエスについての知識はある程度あったようであり、それが、史実であったかもしれません。ヨハネによる福音書も、主イエスのもとにアンデレが、ヨハネの弟子であったのに、シモンのところに行き、主イエスを紹介しています。
 しかし、マルコ福音書は、何の面識もなく働いていた二人に、一方的に「私に従ってきて、ガリラヤの海の魚ではなく、人間たちを取る漁師になるようにしてやろう」という言葉だけによって、従うのであります。
 続く、二人の兄弟、ヤコブとその兄弟ヨハネの場合も事情は同じであります。主は、更に少し進まれると、やコブとヨハネが、舟の中で網を繕っているのを目にされ、声をかけ、呼ばれるのであります。すると、彼らも、父ゼベダイを雇い人たちと共に、舟の中に残して、彼の後に出て行ったという、単純な事実が記されているだけなのであります。
 さて、2000年を経ました現在の私たちの事情はどうでありましょうか。本当に多くの宗教と呼ばれるものが、現在の日本の社会に存在しており、あるいは、無宗教の人も増加しており、また、同じキリスト教でも、異端と呼ばれる者から正統な教派と言われるものが、たくさん存在しています。牧師をしておりますと、色々な、同じキリスト教と言われるものでも、違った立場の人が訪ねて参ります。統一教会の壮年の方が、年末にも、是非、感謝の意を込めて挨拶だけでもしたいと、電話をかけて来て、お菓子をお礼にと言って渡して、帰って行かれました。彼ら夫婦は、20年以上も、統一教会の信仰によって、信仰生活を送って来られた。文鮮明師は、世界の宗教が対立するのをやめて、世界平和のために、宗教が一致することを念願としていると、その自伝の前書きに書いておられる。
 私たちは、たとえば、そのような異端と呼ばれる信仰、宗教の中にも、真しに、清く正しくいきている信者を見出すのであります。
 私たちは、宗教が、混然と存在し、もはや、キリスト教だけが真理であるというふうな主張はできない世界に生きております。しかし、そこに、自分たちの信じる固有の宗教、信仰の自由を、与えられているのであります。
 そして、ルーテル教会に属します私たちは、ルターが見出した救い、救い主イエスへの信仰のみ、恵みのみ、聖書のみという信仰の真理を信じる者たちであります。
 そして、マルコ福音書1:16-20によれば、当時のファリサイ派のラビたちは、シナゴーグでもっぱら、教え、弟子たちは、自分の師とするラビを選ぶ権利があり、そして、弟子たちが、切磋琢磨して、自分のラビを乗り越えて、より偉大なラビになることもできた。
 しかし、主イエスの場合は、事情は異なるのであります。「あなたたちが私を選んだのではない。私があなたたちを選んだ」と主イエスははっきりと言われるのであります。そして、父、み子、み霊は三位一体の神であり、人間・人類とは異なり、その創造主なのであります。そして、私たちは、師に勝る者ではなく、師に似たものとなることで十分なのであります。
 主イエスの弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師たちであり、あるいは、収税所に座って税務を処理していた徴税人マタイであり、マグダラのマリアであり、あるいは、幼子たちまでも含んでいます。
 私たち自身についても思い起こしてみましょう。私が主イエスに召されたのは、長い長い求道生活の挙句の果てのことでした。それまで、私は、京都の宗教の盛んな町で、大学生で、仏教の新派や、キリスト教の諸派にも、顔を出し、病気を経ていたこともあって、何とか救いを見いだしたいと思って求道していました。結局は、キャンパス・クルセ―ドの集会にも、行っており、その一人の英会話を教えてくれる女の先生、派遣されていた青年がたまたま通っていたルーテル京都教会にも足を伸ばし、求道しておりました。
 そして、非常に残念な失敗を犯しまして、そのとき、主イエスが「私はあなたを見捨てない。安心して私に従って来なさい」という声を聞き、幻を見たのであります。
 現在、牧師をして18年経とうとしていますが、思いのままに、伝道・牧会出来ていない現実があります。しかし、主に従ったことによって、他では得難い出会い、喜びにも与って来ました。奢ることなく、また、現実に埋没することなく、後ろではなく、前を見て、主の御用に当たる牧会者・伝道者になりたいと、本日のペトロたちの召命の記事を、頭に納めて、2012年度を歩んでいきたいと思う者であります。アーメン。

 
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2012/01/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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