津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪人と共に生きるイエスさま」(マルコ1:9-11)内海望牧師
マルコ1:9-11、2012・01・15、主の洗礼日(典礼色―白―)、イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

マルコによる福音書1:9-11
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


説教「罪人と共に生きるイエスさま」(マルコ1:9-11)
 聖書日課は、先週の顕現主日(クリスマス)から一気に成人されたイエスさまの洗礼へと飛んで行きます。聖書に記されている誕生以来のイエスさまの歩みは、ごく限られています。八日目の宮参り、命名、エジプト避難、ナザレ帰還と成長、十二歳の時のエルサレム神殿訪問だけです。しかも、それらすべては神さまのひとり子らしい特別な奇跡を伴った華々しい歩みでなく、当時の社会の習慣に従ってのごく普通の幼児の歩みでした。唯一特別に見えるエジプト避難にしても、それはその時の親としては誰でも当然行ったことであったでしょう。言い換えれば、教祖とか、偉大な人物の誕生、幼年期に語り継がれるような輝かしい奇跡的な出来事は何一つなかったということです。しかし、まさにここに「私たちの救い主」であるイエスさまの生き方、人格が明らかにされています。すなわち、イエスさまは、私たち普通の人間と同じ姿で生きて下さる方でした。
 ところで、今日のイエスさまの洗礼は、私たちに何を伝えてくれるのでしょうか。
 マルコは「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」と洗礼の出来事を極めて簡潔に記しています。ところが、マタイ、(ルカ)福音書ではヨハネが痛烈な悔い改めの洗礼を迫る説教が記されています。ファリサイ派や、サドカイ派と呼ばれるそれぞれ当時の宗教的指導者と呼ばれる人々に向かって「蝮の子らよ、斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」とまで迫る厳しいものでした。
 そのようなヨハネの足もとにイエスさまが来られて洗礼を求められたのです。ヨハネは驚き、「私こそ、あなたから洗礼を受ける者です。」とイエスさまに思いとどまらせようとしました。洗礼を授けるべき方が、洗礼を受けるべき人々、悔い改めを必要とする人々の間に立っていらっしゃるのです。イエスさまはヨハネが罪を弾劾している人々、徴税人、権威をかさに人々を脅かす兵士たちの間に交じって立っていらっしゃるという驚くべき出来事がここにあるのです。最後の預言者とも呼ばれるヨハネは神さまの側に立って罪人に激しく悔い改めを迫っています。ところが、イエスさまは罪人の側に立っていらっしゃったのです。これがヨハネの驚きでした。
 しかし、イエスさまが家畜小屋の飼い葉桶での誕生の時から、この私たちの側におられたということは驚きであると共に、これこそ私たちにとって何ものにも代え難い福音、良いニュースなのです。そして、イエスさまは、洗礼を受けられることによって、ご自分が徹頭徹尾罪人と共に生きる方であることを示して下さったのです。イエスさまの洗礼は罪ある人類とイエスさまとの連帯の深さを示す出来事であったのです。
 ここで更に、イエスさまの受難の出来事を思い出して下さい。マルコ福音書では付記の形ですが、イエスさまが十字架につけられた状況を「こうして『その人は犯罪人のひとりに数えられた』という聖書の言葉が実現した。」と書いています。あるいはルカ福音書は、最後の晩餐の後、イエスさまご自身が「言っておくが、『その人は犯罪人のひとりに数えらいます。ここで「聖書の書かれている聖書の言葉」とはイエスさまを預言しているイザヤ書53章12節の言葉を指します。つまり、イエスさまは誕生から十字架の死に至るまで罪人と共に生きて下さった方です。従って、イエスさまの愛のまなざしからもれてしまうような人間は一人もいないのです。どんなに罪深い者であっても、イエスさまは確かに私たち一人一人を愛して下さっているのです。私たちは、その確かさを罪人の列に並んで洗礼をお受けになるイエスさまの姿から得ることが出来ます。抽象的な話をしているのではありません。私たちが取り返しのつかないようなことを犯している時でも、確かに私たちはイエスさまの愛のもとにあるのです。しかも、イエスさまは、裁判官の席から赦しの手を伸べるというのでなく、ご自分を犯罪人のひとりの数えられるような場所において私と共にいて下さるのです。イエスさまの洗礼はこの事実を示す出来事なのです。

 さて、唐突ですが、この救いの確かさを必死に追い求めたルターの心に思いを馳せてみます。ルターは、友人の突然の死に出会って、震え慄きました。今、自分が突然死んだらどうなるだろうか、罪人である自分は切り倒されて永遠に燃え盛る火に投げ込まれるのではないかという不安、恐れにとらわれたのです。そこで修道院に入ったのです。修道士として守るべき規則をきちんと守る生活をすれば、神さまに赦され、救いの確かさを与えられると信じたのです。
 このようなルターの願いは、決して時代遅れの中世ヨーロッパ人の願いではありません。
いつの時代にも心の平和、安心を求める心はあります。
 私たちも、安心した人生を生きるため懸命に学び、働いています。優れた業績を出せば生活の確かな基盤が与えられると安心します。業績が落ちれば不安になります。ルターは、信仰的な面ですが、同じ不安にさいなまれたのです。思考レベルは違いますが、私たちが高学歴を求めて必死に勉強する、高収入を求めて良い会社を探しまわる心理と同じです。ルターは同じ真剣さをもって救いの確かさを得て安らかな思いを得ようと努力したのです。その努力は傍目にもその努力はすさまじいものであったようです。修道院長が心配して、「君は神さまと争っているような気がする。少し、休んだら」と忠告したほどでした。かつて企業戦士という言葉がよく用いられました。朝早くから、夜遅くまで、それこそ必死に働きました。修道士時代のルターは、きっとそのような姿であったのでしょう。
 しかし、結局ルターは救いの確かさを得ることが出来ませんでした。「私は、確かに救われた」という確信が得られなかったのです。反対に、努力すればするほど、自分の心に潜む罪の姿に気づかされ新たな不安の中へと陥るのでした。ついに、ルターは完全に絶望してしまいました。自分は死すべき罪人だと知ったのです。
 ところが、まさにその時、この罪人の一人として数えられることを厭わず、罪人の中に生きて下さるイエスさまに出会ったのです。この方が裁く側でなく、こちら側、裁かれる罪人と共にいらっしゃる限り、絶対に見捨てられることはない、と救われている確かさを得たのです。自分の信仰的行い、道徳的努力によって決して得ることの出来なかった確かさをイエスさまの愛に見出したのです。絶望が希望に変わり、不安が平安に変えられたのです。ルターは確信をもってイエスさまの愛を信じて生きて行く者に変えられたのです。自由な喜びに満ちた日々を歩み始めたのです。福音に生きる喜びです。
 ここにおいて、イエスさまの洗礼が、私たちの生活と結びつくのです。
 私たちは、洗礼を受けるイエスさまを通して、わたしたちの「内に」「下に」「共に」いる方の姿を見ることが出来ます。(ルーテル教会で良く用いられる表現。)イエスさまは、御言葉の説教と、礼典を通して絶えず私たちの心を新しくして下さる方です。【内に働く愛の力】です。同時に、この方は罪の赦しを受けなければ生きていけない私たちを【下から】支えて下さる方です。足もとがぐらつくと人生全体が不安になります。しかし、イエスさまは確かな土台として私たちを支えて下さいます。ですから、私たちは決してぐらつくことはありません。そして、私たちに寄り添って【共に】歩んで下さる方なのです。
 この確かさは、たとえ生活上の不安があっても、業績社会にあって功績を出すことが出来なくても、その不安を補って余りある確かさです。イエスさまは、私たち一人一人にとって「傷ついた葦を折ることなく、暗くなって行く灯心を消すことがないように」と支えて下さる方なのです。
 与えられたこの新しい一年も、自分の信仰的な行いではなく、決して失われることのないイエス・キリストの愛を確かなものと信じ、平安と希望のうちに日々生きて行きましょう。
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2012/01/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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