津田沼教会 牧師のメッセージ
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「死の陰に座している者たちに光が」(ルカ1:67-79)
ルカによる福音書1:67-79、2011・12・18、待降節第4主日(典礼色―紫―)、ゼファニア書3:14-17、フィリピの信徒への手紙4:2-7、

ルカによる福音書1:67-79
 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
主はその民を訪れて解放し、
我らのために救いの角を、
僕ダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して
 語られた通りに。
それは、我らの敵、
すべて我らを憎む者の手からの救い。
主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
こうして我らは、
敵の手から救われ、
恐れなく主に仕える、
生涯、主の御前に清く正しく。
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
 知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
 高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。」
 



説教「死の陰に座している者たちに光が」(ルカ1:67-79)

本日は、待降節第4主日を迎えました。ザカリアの賛歌、ベネディクツスが福音として与えられています。洗礼者ヨハネの命名がなされたあとに、ようやく口が開いたザカリアの預言であります。人々は、政治的、経済的な救い主を待ち望んでいましたが、メシアとして来られる主イエスは、闇と死の陰に座している者たち、すなわち、全人類である私たちのもとに輝く出でたあけぼのの光でありました。
私たちは、メシアである主イエスに頼らなければ、暗闇と死の陰に座している惨めな者にすぎません。そのことを、ザカリアは、預言しているのであります。
ヨハネの命名は重要なことでした。ユダの山里の人々は、生まれて来た子に、ザカリアという父の名を付ける者だと考えていました。しかし、エリサベトもザカリアも、この子の名はヨハネでなければならないことを、天使のみ告げにより、知らされていたのであります。それは、神は慈悲深いという名前の意味です。日本でも名は体を表わすといいますが、ユダヤの国ではそれ以上に命名は大切なことだと考えられていました。アブラハムは、多くの国民の父という意味の名前で、神によってその命名がなされましたし、モーセは、ファロの王女が、水から引き上げたところから来ています。
繰り返しますが、私たちは、このメシアなしには、闇と死の陰に座している哀れな罪人に過ぎません。そして、メシアの来られる前に、洗礼者ヨハネが現われて、主の道を整えるのであります。そのことを聖霊に満たされて歌ったのが、本日のザカリアの預言であります。洗礼者ヨハネがまず、荒れ野において現れ、主の道を整え、主の民に、罪の赦しにおける救いを知らせるというのであります。
 これらの歴史に起こった事実は、深い神の摂理のもとに起こったのであります。神は、その独り子を、私たち全人類の罪のために、深い神のご計画が実現するのであります。
そして、闇と死の陰に座していた私たちに、あけぼのの光が差し込むのであります。そして、それは、私たちの足を平和の道へと導くためのものであったのです。来週は、たまたま、主日が降誕祭に当たりますが、ヨハネ1章の書き出しを通して、「この世に来たまことの光」である主イエスのご降誕をいよいよ祝う日を迎えるのであります。罪と闇と死にまみれた私たちの現実の生活の只中に、真の光であるお方がお出でになられるのであります。
 私たちは、洗礼者ヨハネの悔い改めへの招きに、立ち返りながら、罪の身の救いをもたらされるみ子の誕生を心から喜ぶ備えを、今この時なしていきたいと思います。

 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
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2011/12/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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