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津田沼教会 牧師のメッセージ
「荒れ野の声」(ヨハネ1:19-28)内海望牧師
ヨハネによる福音書1:19-28、2011・12・11、待降節第3主日(典礼色―紫―)、イザヤ書61:1-4、テサロニケの信徒への手紙一5:16-24、

ヨハネによる福音書1:19-28
 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず「わたしはメシアではない」と言い表わした。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなやは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。



説教「荒れ野の声」(ヨハネ1:19-28)内海望牧師

 待降節(アドベント)も3週目を迎えました。未来に希望を持ちにくい現代社会にあって、救い主を待ち望みつつ日々を歩むことが出来る私たちは幸いです。しかも他ならぬ世界の救い主を待つのですから。しかしながら、クリスマスは一足飛びに来るものではありません。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことが必要なのです。そのために洗礼者ヨハネが遣わされたのです。今は主イエスをお迎えするための道筋をまっすぐに整えるための準備の時です。
 準備の時とは何を意味するのでしょうか。それは悔い改めの時です。私たちは、教会の伝統に従って、アドベントに四旬節(受難節)の時に用いる紫を典礼色として用います。また、ハレルヤ唱に変えて、これも受難節に用いる詠唱を歌います。これは、私たちを罪から救うために十字架に死んで下さったイエスさまに心を向ける時を意味します。洗礼者ヨハネが人々に勧めたように、私たちもアドベントを悔い改めの時として守っているのです。
 ところで問題は、私たちの心がこの紫の典礼色に真実に呼応しているかどうかです。主を迎えるためにしっかりと心に道筋を整えているかどうかです。心に時を刻むことは大切です。アドベントのろうそくが毎週増えて行くのを見ながら、一歩一歩、大地を踏みしめる思いで、救い主イエス・キリストの許へ悔い改めの心を持って歩んで行きたいと思います。
 福音書の日課から御言葉を聞きましょう。ヨハネは決して自分を主役にしませんでした。あくまでも指し示す指に徹していました。「私はメシアではない」と公言し、その他偉大な預言者エリヤであるかと聞かれても「違う」「そうではない」と言い続けました。これは人間にとって最も難しい態度ではないでしょうか。私たちは、どのような時でも「俺が、俺が、私が」という自分を大きくする生き方に固執します。心が自己へと傾いているのです。ヨハネはそうではありませんでした。あくまでも自分でなく救い主イエスさまを指し示す生き方を続けました。
 ヨハネは預言者イザヤの言葉を引いて、自分は「荒れ野の声」であると言っています。この声を聞くようにと言っているのです。果たして私たちにこの「声」が聞こえているでしょうか。
 私たちの社会は「音」あるいは「声」があふれていて、騒音の中に生きていると言っても過言ではないでしょう。「耳を澄ます時」より「耳をふさぐ時」の方が多いのです。聞き流す術も覚えています。
 昔の町にはどのような音があったかを調べた興味深い書物があります。日本では豆腐売りのラッパの音がよく聞こえていました。子どもたちが遊ぶ声も聞こえていました。言い換えると、他の音はなかったのです。ヨーロッパでは教会の鐘の音が大切な音、声でした。ミレーの晩鐘に描かれている夫婦で祈る姿は感動的です。教会の夕べの鐘が聞こえた時、人々は静かに祈ったのです。町は静かだったのです。しかし、大切な音は聞こえていたのです。一日の初めと終わりに心静かに祈る時を失っているのが私たちの姿ではないでしょうか。祈る時を失った分、心は自我を満たす欲望で膨れ上がって行くのです。心に「祈りの水路」を持てなくなったとしたら人間として生きて行く資格を失ったと言ってよいでしょう。私たちは、「救い主を指し示す荒れ野の声」を今日聴き取ったでしょうか。
 まだ問題があります。これが、「声」を聴き取れない本当の理由なのです。それは、私たちの心がいつも自分の利益に向かって傾いているということです。先ほど「俺が。俺が」という思いが心にいっぱいであると言いましたが、その通りなのです。この自己中心的な心がある限り、私たちは、たとえ静かな町であっても「救い主の声」を聴き取ることは出来ないでしょう。修道院の中でルターは「私は祈っている時でさえ、自分のことだけを考えている」と胸を打ちました。あの静かな修道院の祈りの場所でさえ「救い主の声」を聴き取ることが出来なかったのです。
 列王記上19章12節には次のような場面が描かれています。預言者エリアが王妃イゼベルに命を狙われ、逃げ出しますが、疲れ果てて死を願うようになった時のことです。エリアは神さまと話していながら、神さまの声を聴き取ることが出来なくなっていたのです。ところが、激しい嵐、地震、火が通り過ぎた時、エリアは落ち着いた静かな心を回復することが出来たという物語です。
 荒れ野で叫ぶヨハネの声に耳を傾けてみましょう。「主の道をまっすぐにせよ」とヨハネは勧めます。それは、先ほどにも言ったように「悔い改めよ」という意味です。紫の典礼色に呼応する心とは悔い改めの心なのです。この「悔い改めの心」というのは、詩編51編でダビデが「私を憐れんで下さい。私の咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」と祈ることです。「現代は恵みを必要としなくなった」と言われます。「憐れんで下さい」「あなたの恵みのみが頼りです」と主のみもとにひれ伏す代わりに、私たち人間は、言い訳、弁解の言葉を山と築くのです。弁解もだんだん程度が下がって行きます。「社会が悪い」というような責任転嫁から始まって、最後には「あいつよりまだましだ」というところまで落ち込んで行くのです。恐ろしいことです。
 しかし、ヨハネが指し示す方は、私たちを罰するために来られる方ではありません。16節には、次のように書かれています。ヨハネが示す方は、「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、恵みを受けた」と感謝するような方なのです。洗礼者ヨハネが「私はその方の履物のひもを解く資格もない」と指し示す方は、神さまの尊いひとり子です。この方が、罪人を救うためにすべてを捨てて、僕として、私たちの只中に来て下さったのがクリスマスなのです。しかも、泊るべき宿屋もなく、飼い葉桶での誕生という形で。ルターは次のようにその驚きを記しています。「天においてあのように輝かしく前ぶれされたこれらの出来事が、地上では何とつつましく起こったことでしょう」と。「つつましく」どころか、まさにホームレスとしての誕生でした。しかも、成人したイエスさまを待っていたのは十字架の苦難と死への道でした。私たち人間を罪から救うためには、神のひとり子という尊厳も投げ捨て、ひたすら仕える方として、罪人のひとりと数えられるのもいとわず人々と共に生きて下さったのです。「父よ、彼らを赦して下さい」という十字架上の最後の祈りを残して。この祈りによってのみ私たちは生きることが出来るのです。私たちが生きるためになくてはならぬただ一つのものはこのイエスさまの恵みなのです。私たちにはイエスさまの恵みが必要なのです。恵みによってのみ生きていけるのです。もう責任転嫁、弁解、言い訳、他者弾劾のような人生から離れて、イエスさまの恵みのみを頼りに生きて行きましょう。
 クリスマスの準備、アドベントとはこのように心を整えることです。世界のいたるところで今クリスマスを迎える準備をしています。あるドイツの神学者であり、牧師である方が説教の中でこう語りました。「アドベントを迎えて、クリスマスの飾りつけに出会う人は非常に多い。また『神の御子』という言葉に出会う人もいる。しかし、救い主ご自身に出会うことのない寂しいクリスマスを迎えることもあるのだ」と。
 初めに、心に時を刻むことをお勧めしました。これからの2週間、砕けた心を持ってイエスさまが私たちのためにして下さったことにしっかりと目を向け、恵みの大きさに感謝しクリスマスにはイエスさまとの真実の出会いを経験しましょう。

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2011/12/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)