津田沼教会 牧師のメッセージ
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説教「心を神に向けよう」(マタイ1:1-8)
マルコ1:1-8、2011・12・4、待降節第2主日(典礼色―紫―聖餐式)、イザヤ書40:1-7、ペトロの手紙 二 3:8-14

マルコによる福音書1:1-8
 神の子イエス・キリストの福音の初め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
  あなたの道を準備させよう。
  荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう述べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」



説教「心を神に向けよう」(マルコ1:1-8)

本日は、アドベント、これは、到来という意味のラテン語ですが、そのアドベントの第2主日として、マルコ1:1-が与えられています。そのことの意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 マルコには、マタイや、ルカと違って、主イエスの誕生の出来事については書かれていません。早速、公生涯における主イエスの登場が記されているのであります。
まず、出だしとして、「神の子イエス・キリストの福音の始め」と表題をマルコは記すことによって、福音書を書き始めて行きます。
 主イエスが、唯一の神の独り子であり、その彼が到来すること自体が、福音、良き知らせであると共に、主イエスがこれから語られるみ言葉こそ、またみ業こそ、福音であり、良き訪れであるというのであります。
 まず、旧約の預言から、出エジプト記やマラキ書から取り出して、それらの複数の預言とイザヤの預言を用いて、それをひっくるめて預言者イザヤに帰しています。「神である私は、その使いをあなたの先に派遣する。」人々は、エリヤがメシアの前に現われると信じていましたが、その者が洗礼者ヨハネであったのであります。彼が神の道を整え、まっすぐにするのであります。
そして、その声が、荒れ野において叫ぶのであります。「主の道をあなたは整えよ、彼の小道どもをまっすぐにせよ」と。これは、バビロンから、捕囚民であったイスラエルの人たちが帰還することを預言したものであったでしょうが、これを、解釈して主イエスが来られる前に、洗礼者ヨハネが現われて人々に道備えをしたことを示していると信じたのであります。
 彼ヨハネは、いなごと蜂蜜、野蜜を食料として、また、らくだの毛の服を着て、腰には皮の帯をつけ、預言者エリヤと同様な風貌で現われます。
 そして、人々が反響を持ってぞくぞくと集まってくるのであります。彼は、悔い改めにいたる罪の許しを得させる洗礼を説教していたのであります。
 そして、彼は、人々の心を上なる神の方向へと変えさせようとしていたのであります。悔い改めとは、メタノイア、心の向きを神の方向へと代えることであります。
 そして、私の後にもっと力ある方が現われて、私のように水での悔い改めに至らせる洗礼ではなく、聖霊によって洗礼を施すと宣言していたのであります。私たちは、再び、到来するメシア、キリストに心を向けて、待ち備えをしましょう。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方の心と思いとを守られるように。

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2011/12/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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