津田沼教会 牧師のメッセージ
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「王であるキリスト」(マツコ11:1-11)
マルコ11:1-11、2011・11・27、待降節第1主日、(典礼色―紫―)、イザヤ書63:15-64:7、コリントの信徒への手紙 一 1:3-9

マルコによる福音書11:1-11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
  主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。



説教「王なるキリスト」(マルコ11:1-11)

 新しい教会暦の一年が、本日の待降節第1主日から、始まります。そして、今年は、A、B、Cの3年サイクルのうちのB年であり、マルコ福音書が、主たる福音書として読み継がれていきます。
 そして、ルーテル教会では、必ず教会暦の一年の始めに、共観福音書の中の主イエスのエルサレム入城の記事が読まれます。さらに、その同じ記事が今回は来年の4月1日の枝の主日にも読まれます。そこでは、受難週が始まる日曜日として、十字架に進まれる主イエスに焦点をあてて、読まれるのであります。
 本日は、アドベント(到来という意味)として、再び来たりたもう主イエスを覚えて、本日の記事、マルコ11:1-11をしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 マルコ福音書は、紀元後60年頃に書かれたもののようで、4つの福音書の中では、最も早い時期に書かれたものであり、マタイ福音書や、ルカ福音書は、マルコ福音書と共に、共観福音書と呼ばれますが、それらは、マルコ福音書を、いわば下敷きとして書かれたものであります。
 そして、本日のエルサレム入城の記事は、4つの福音書すべてに記されており、教会にとって非常に大切な記事として、大事にされ、読み続けられてきたことが窺えます。マルコ福音書の記事に戻りましょう。それは、エルサレムに向かっての旅、十字架に向かっての旅がようやく終わろうとしている時の出来事でありました。本日の記事は次のようなものでありました。
 そして、エルサレムへと、ベトファゲへと、そして、ベタニアへと、オリーブ山に向かって、彼らが近づいたとき、主イエスは、彼の弟子たちのうちの二人を送り出そうとして言われるのであります。あなた方の向こうの村へと出て行きなさい。すると、そこに入ると直に、まだ、だれも乗せたことのない子ろばが、つないであるのを、あなた方は見出すであろう。それをほどきなさい、そして、連れてきなさい。もしだれかが、なぜ、そんなことをするのかと言ったなら。あなた方は言いなさい。彼のその主が必要を持っている。そして、彼は、すぐに、再びここに子ろばを送り返すでしょうと。マルコは、素朴に、無口気味に、本日の出来事を書き連ねていきます。マルコは、ペトロの通訳であったとの見方がありますが、ペトロの目撃証言を中核として、本日の記事を編集しているとも言えましょう。
 さて、弟子たちはその村、おそらく、エルサレムに近いほうのベトファゲであったでしょう、そこに入っていきます。そして、四差路のような外の通りの上に、戸口に向かってつながれている子ろばを見出します。彼らがその子ろばの綱をほどいていると、そこに立っていた者たちのある者たちが、なぜ、そんなことをするのかと言います。二人は、主イエスの言われたとおりに語ると、彼らは、二人を許してくれたのであります。彼らは、子ろばを主イエスのもとに、引いてきて、その上に上着をしきます。すると、主はそれにお乗りになりました。
 そして、大勢が、彼らの上着を道にしき、他の者たちは、野から葉の付いた枝を切ってきて、道にしきました。このふるまいは、王が即位したときにするものであります。しかし、主イエスは、まだだれも乗せたことのない神聖な子ろばに乗られるのであります。マルコ記者の心には、ゼカリヤ書9:9の「見よ、あなたの王が来る。・・・高ぶることなく、ろばに乗ってくる。 雌ろばの子であるろばに乗って」という預言があったことでしょうが、マルコは、それを記述してはいません。
 オリーブ山は、メシアが、終わりの日に立って現われ、ユダヤの敵どもを滅ぼす場所として、メシア的な意義を持っていました。
 さて、そのとき、前を行く者たちも、後から従う者たちも、叫んで言っていました。ホサナ、主の名において来られる方は祝福されている。私たちの父ダビデの来たるべき王国は祝福されている。いと高きところにおいて、ホサナと。
 ホサナというのは、詩編118編25、26節に出てきます。「どうか、主よ、私たちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを。祝福あれ、主のみ名によって来る人に」と。ホサナという意味は、今救ってくださいという神への願いの言葉でありましたが、ここでは、喝采、歓呼の言葉になっていたかもしれません。
 マルコは、寡黙で、詳しい説明を述べてはいません。いつしか、群衆は、消え去っています。ユダヤ当局やローマの官憲も、これに動じたという風な記述はありません。
 そして、主イエスはエルサレム神殿の境内へと入っていき、すべてのものを見回した後、既に時刻も遅くなっていたので、12人と一緒にベタニアへと出て行かれたと、唐突に、エルサレム入城の記事は終わっています。
 「お出でになる方、来られる方」というのは、メシア的な言葉です。主イエスは、王の王として、この日、馬に乗った軍人の王としてではなく、子ろばに乗る、へりくだった王として、エルサレム入城をなさったのであります。
 主イエスのご降誕が、第一のアドヴェントであり、世の終わりに王の王として来られるキリストが来られるのが、再臨であり、第二のアドヴェントであります。私たちは、心を落ち着けて、私たちの罪の危険から守ってくださる王であるキリスト、メシアを覚えて、今日から始まる教会暦の一年を、希望をもって歩んでいきましょう。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。







 




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2011/11/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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