津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主を迎える備え」(マタイ25:1~13)原拓也牧師
マタイ25:1-13、2011・11・13、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)、ホセア書11:1-9、テサロニケの信徒への手紙一3:7-13

マタイによる福音書25:1-13
 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が締められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」


説教「主を迎える備え」(原拓也牧師)
 教会暦は聖霊降臨後第22主日を迎えました。次週は最終主日で、教会暦の年末を迎えることになりますが、この時期の聖書日課は、私たちが主の再臨を覚え、その備えをなすように促しています。そのことを覚えながら、日課を通して主のみ教えを聞きましょう。
 本日の第一朗読は、ホセア書11:1-9であります。ホセア書の特徴は、主の圧倒的・一方的な愛にあります。ホセア書の特徴は、個人の家庭内の出来事が「預言」として用いられている点にあります。1章から10章までは、神とイスラエルの関係が、夫婦の愛の関係として語られます。11章は、神とイスラエルの関係が父の子への愛として述べられます。
 ホセア書の背景をみてみましょう。まず、個人的背景でありますが、ホセアの家庭、淫行の妻とその妻に関する主の言葉があります。姦淫を犯した妻、ゴメルとその子供を引き取れとの主の言葉があります。ホセアのもとに帰った妻は再び淫行に走りました。妻の淫行に関しては幾つかの説があります。
 一方で、そのような妻を失いたくないと願っているホセアの願望と熱情があります。
次に、政治的・宗教的背景をみましょう。政治的背景としては、ホセアが預言者として活動した当時の北王国イスラエルは、存亡の危機に面した中で、何とかして国の存続を図ろうと腐心していました。北王国イスラエルは、BC721年、アッシリヤによって滅亡します。
 宗教的背景としては、このような政治的危機の中で、外国の力に頼った結果、異教の神々への信仰・礼拝が入って来ました(4章、5章等参照)。
 ホセアの預言は、ホセアの個人的体験とイスラエル王国の政治的宗教的状況とが結び付けられ、預言として語られます。姦淫は、夫婦の契約に対する裏切りです。偶像礼拝は神、キリストとの血による契約に対する裏切りです。いずれも、契約への裏切り、背信として特徴づけられます。ルターは、「偶像とは、人が神以上に信頼するすべてのものである」と言いました。一般的に言って、偶像は常に立派なもの、人・物、行為に見えます。キリストが“富める者が神の国に入るのは難しい”(マタイ19:23他)、と言われたとき、金銭だけを指して言われたのではないと理解すべきであります。
 偶像礼拝から脱却するためには「価値観の転換・逆転」が求められます(フィリピ3:7参照)。
 ホセア時代のイスラエルにとっても、必要なものは「力」ではなく、「信仰=神への信頼」であった(1:7参照)。
 この背信のイスラエルに対する神の真情が8節に述べられます。ここに見られるのは、理性ではなく情であり、理屈ではなく愛であります。この神のイスラエルに対する愛は、そのまま神のあなたに対する、私に対する愛であり、私たちの救いはこの一方的な、そして圧倒的な神の愛と恵みによっています。
人はすべてこの姦淫の妻のように、神の前に顔を挙げることのできない存在であります。しかしそのような者を、罪も、咎も、弱さも、愚かさも、あるがままに受け入れ、なおも愛してくださる神であるからこそ、私たちは赦され、神と共に生きる者とされるのであります。
福音書は、この神を花婿として、迎える私たちを乙女たちとして描いていますマタイ福音書の迎える乙女たち、その賢愚を分けたものは何なのか、福音書から三つの点を学んでおきたいと思います。
第一は、「賢い」と言われた乙女も、「愚か」と言われた乙女も、共に眠ってしまった点であります。
信仰生活を、いつも目を覚まして、生き生きと続けることは理想かもしれないが、必ずしもそのようにできるとは限りません。彼女らも“待ちくたびれて”等しく眠ってしまいました。この点では10人ともまったく同じで“神に受け入れられる程の価値を持たない者”と言えます。
第二は、10人の乙女たちを賢者と愚者に分けた原因は、「油を用意していたか、いなかったか」「灯が明々と点いていたか、消えかけていたかという点にあります。
油は「聖霊」と普通理解されています。「灯」すなわち福音を信じて、ぶどうの枝のように主に結びついた生き方が問われています。
ちなみに、「賢い」は口語訳では「思慮深い」、「愚かな」は「思慮が浅い」となっています(マタイ7:24-26,24:45-47)。その意味は、先を見通して、そのために備えて生きる人と、それをしない人であります。
 第三に、この時「愚かな」と言われた乙女たちの手持ちの油は切れかけてはいたけれども、“まだ灯は消えていない”事に注目しておきたい。
この時、彼女たちは、友人・仲間とはいえ、油を「人に求め」、「店に行って、・・・買って来なさい」言われて買いに走った。また、「賢い」と言われた乙女たちも、「買ってきなさい」と言っています。それ故、ここでも10人に本質的な違いは見られません。
では、彼女たちはどうすべきであったのか。「花婿に」訴えるべきではなかったのか。もし、そうしていたら花婿はどう答えたであろうか。
「愚かな」と言われた乙女たちは、主に“聞く前に走り出した”。この乙女たちの先走りが、彼女たちを婚宴の席にふさわしくない者にしてしまった、と言えないでしょうか。
主は、救いと裁きを携えて必ず来ると約束されました。キリストを信じる者にとって、この時こそホセアが預言した“回復の時、救いの時”(11:9-11)であり、この主こそ「わが義人は、信仰によって生きる」(ヘブル10:38-39、口語訳)とおっしゃる方です。
そして、主は今日もあなたに、そして私に、「どんな有様でもいい、あるがままの姿で、私の福音を信じて、私を迎えるように」と、呼びかけていらっしゃるのです。
来るべき日に、主をお迎えすることができるように、備えて待ちましょう。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


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2011/11/13(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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