津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神の招きにふさわしく歩む」(マタイ22:1~14)
マタイ22:1-14、2011・10・23、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書31:1-6、フィリピの信徒への手紙3:12-16

マタイによる福音書22:1-14
 イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いたおいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通り出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」


説教「神の招きにふさわしく歩む」(マタイ22:1-14)

私たちは、本日の主日の祈りでも「あなたは豊かな祝福を日々新たに与えてくださいます」と祈りました。1週間、1週間が、速やかに流れ去って、教会暦の一年も終わりに近づこうとしています。そして、与えられます福音も、終末に関わりを持つ記事が増えてきます。先週は、「ぶどう園と悪い農夫たち」という主イエスがなさった譬え話でありました。本日の記事も、ある王が王子のために婚宴をもうけ、招いていた人々を、奴隷たちを送って呼びに行かせるというものです。主は、譬えどもにおいて、次のように語って言われます。すなわち、天の国は、ある王がその息子のために婚宴を開くときの状態に似ていると、語り始めるのであります。ところが、彼らは招きに応じようとしないでいたのであります。王は更に、奴隷を送ってこさせようとしましたが、あるものは、畑に、あるものは、商売にと出かけ、さらには、別の者たちは、彼らをぞんざいに取り扱い、殺してしまうのであります。
王は怒って、軍隊を送り込み、その者どもを滅ぼし、その町を焼き尽くしたのであります。これは、紀元後70年のエルサレム陥落を暗示しているかもしれません。本日の話は屈折していまして、私たちを困惑させます。王は、婚宴の用意、食事の用意、ご馳走の用意ができていますからと、最初、招いていた人々を呼びにいかせたのですが、彼らはふさわしくなかった。それゆえ、あなたがたは、道の町の通りに行って、見出したものを皆、この婚宴へと招きなさいといって更に奴隷たちに命じるのです。彼らは出て行って、悪い者たちも、良い者たちも、呼んできたので、婚宴は一杯になったというのであります。ところが、婚宴の食事に来ているものたちを王が見に行ったとき、結婚式の礼服を着ていないものが一人いるのを見出します。王は、なぜ、礼服を着てこなかったのかと問いますと、その者は黙りこくっています。それで、給仕をする者たちに、命じて、手足を縛らせ、外の暗闇に放り出せ、そこには、泣き叫ぶ声や歯軋りする音があるであろうというのであります。
そして、なぜならば、招かれる者どもは多いが、選ばれる者どもは少ないと、主は本日の譬えを結ばれたのであります。この礼服とは何を表わしているでしょうか。それは、宗教改革者の時代から、信仰を意味していると考える人々が大勢いました。しかし、その礼服、良い衣服とは、良い行い、良きわざを意味していると考えることができます。マタイは、教会に所属しているから救われるとは考えず、マタイのイエスは、信仰にふさわしいふるまいを重視されます。み国での最後の祝宴において、選ばれる者になるために、信仰を与えられたものとして、ふさわしい行いをし、終末のときに、白い衣を着せられて、命の木の実と葉に与る者になるために、悔い改めにふさわしい生活の実をもたらされる者とされたいと思います。ともすれば、誘惑に負け、絶対にもう陥るまいと思った罪に陥ることがあります。
主は、しかし、み言葉の励ましによって、また、終末のときの天上での祝宴につながる者として、私たちに聖餐式を与えてくださっています。そのことを、おぼえながら、招かれた一人ひとりとして、救いに与ることができるために、目覚めて歩みたいものであります。残された聖霊降臨後の時期を、心を主イエスに向け、父なる神に向けて、新たな歩みを、この場から始めていきたいと思います。

わたしたちの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものをすべて満たしてくださいます。アーメン。




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2011/10/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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