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津田沼教会 牧師のメッセージ
「それでも主は愛して下さる」(マタイ21:33-44)内海望牧師
マタイ21:33-44、2011・10・16、イザヤ書5:1-7、フィリピの信徒への手紙2:12-18、
聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書21:33-44
 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中にある搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打殺した。また、他の僕たちを前より多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。
  これは、主がなさったことで、
  わたしたちの目には不思議に見える。』
 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」


説教「それでも主は愛して下さる」(マタイ21:33-44)内海望牧師
 
 先ず福音書のたとえの原形とも言える第一の日課であるイザヤ書5章を開きましょう。これは預言者イザヤに与えられた詩です。秋の収穫感謝祭の折に朗読されているのです。預言者は「神の口」と言われます。神さまの口となって、イザヤは神さまの御心を語るのです。
 先ず収穫の喜びに満ちた呼びかけから始まります。「ぶどう」はよく花嫁にたとえられます。花嫁に対するように愛の歌を歌おうとしているのです。
 神さまは人間がよい実りをもたらすぶどうのようになるように労苦を惜しまず、手塩を掛けて育てて下さいました。創造者である神さまは、私たち人間に、おきてを通して歩むべき道筋を教え、折々の預言者を通して、私たちが道を間違いないように支えて下さいました。2節を読むとその様子がよく分かります。また4節には「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあろうか」と言い切っていらっしゃいます。確かに、聖書の歴史は、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブ、更に、預言者や使徒を通して、私たち人間に語りかけ、良い実りを得るようにと仕えて下さっている歴史とも言えます。神さまが仕えて下さっているのです!
 ところが、「実ったのは酸っぱいぶどう酒であった」のです。神さまの失望落胆は大きいものでした。そこで、「君たちは不実の花嫁だ。わたしはこれを見捨てる」と宣言されるのです。当然の怒りです。主がよい実りを心待ちにして楽しんで育まれたぶどう畑が流血と阿鼻叫喚の世界となってしまったのです。ここには悔い改めの勧めはありません。事実を述べ、後はただ聴き手の手に委ねるのです。ローマ書1章に「(神さまは、人間の」するにまかせられました)という言葉があります。骨身に沁みる恐ろしい言葉です。今、同じ思いを会衆はしているでしょう。

 イザヤは紀元前8世紀の預言者です。それから700年が経過し、今日の福音書のたとえに至るのです。人間は悔い改めることなく、強情にも酸っぱいぶどうであり続けたのです。「酸っぱいぶどう」とはどのようなものでしょうか。それは自己中心的生き方です。何でも自分を中心にして考える生き方です。言い換えれば、自分を神さまのように大切にし、自分のためならば、たとえ親友でも裏切るような生き方です。これこそ人間がアダム以来引きずって来た原罪なのです。私たちは犯したもろもろの罪を懺悔します。「もう二度とすまい」と涙ながらに悔いる時もあります。それでも、私たちは決して罪から逃れることは出来ないのです。自己を神とする、という原罪から逃れることは出来ないのです。「私の体にはもう一つの法則と戦い、私を、五体のうちにある罪の法則の虜にしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」というパウロの悲痛な叫びは私たち人間全部に当てはまる共通の呻きではないでしょうか。私たちは罪のとりこなのです。
 福音書を読んでみましょう。人間の姿はイザヤ書の時と少しも変わりません。「僕たち」というのは神の口である預言者を指しているのでしょう。人々は彼らを袋叩きにし、殺害までしました。それでも、愛と忍耐の神さまは僕たちを送り続けたのです。700年間忍耐し続ける神さまの愛をここに見ます。「私は君たちを見捨てる」と宣言された神さまでしたが、神さまは耐え続けてくださいました。想像を絶する忍耐です。感謝しながらも、同時に「どうしてそこまで」と思ってしまうほどです。世界を創造し、これを聖別して下さった神さまはずっと人間を愛し続ける方でした。預言者エゼキエルは神さまの心を『(不正を行った者は死ぬ。)・・・・「どうしてお前たちは死んでよかろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って行きよ」と主なる神は言われる』と伝えています。この聖書の個所には、神さまの肉声が聞こえてくるような気がします。聖書には、時に残酷と思われるほど厳しい裁きの言葉が記されています。しかし、その激しさは、人間への愛の深さを示していると言えましょう。愛するがゆえ、その怒りも大きいのです。不実な花嫁を忍耐し続ける神さまの愛の迫力に圧倒されます。そこに神さまの痛み、正義と愛の葛藤をみます。
 今日の福音のたとえには、イザヤには出て来なかった個所があります。37節以下です。「主人は自分の息子を送った」という所です。ここにはイエスさまのご自分の決意が秘められています。今、イエスさまはまっすぐにエルサレムに向かって歩いていらっしゃいます。そこにはイエスさまご自身「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を打ち殺す者よ」と嘆き悲しんでおられるような場所です。そこには十字架が待っていることも覚悟していらっしゃるのです。イエスさまは数千年の間、決着のつかなかった人間の罪に対して決着をつける時が迫っていることをご存知でした。それは、ご自分の十字架の苦しみと死を通してのみ決着できるものでした。
 私たちは、「神は愛なり」などと安易に語ってはいけないと思います。創造者としての神さまの愛、何とか私たち人間を正しい道筋に立ち帰らせようとした神さまの忍耐、「畑のためになすべきことで何かしなかったことがあるか」とおっしゃるほどきめ細やかに人間に接し、裏切られても、忍耐に忍耐を重ねた年月を思います。そして、今、ひとり子イエスさまを送り、私たちの罪を贖うために十字架への道を歩ませていらっしゃるのです。
 確かに、「神は愛なり」と言ってよいでしょう。しかし、それは簡単に感謝できるようなものではなく、まことに高価な犠牲を伴う愛なのです。イエスさまの十字架の苦しみに、私たちの罪の恐ろしさが見えて来ます。あのむごたらしいイエスさまの十字架の苦しみとは、この私が受けるべきものであったのです。パスカルは、ゲッセマネのイエスさまを「イエスさまは、地上でただひとりである。彼の苦痛を感じ取って、分け合ってくれる者がいないどころか、それを知ってくれる者もいない。・・・イエスさまは弟子たちが眠っている間に、救いの業を行われた。・・・イエスさまは苦悶のうちに、この上ない大きい苦痛のうちにおられるのだから、さらにさらに長く祈ろう」と書いています。確かに、私たちは苦難のさなかにあるイエスさまを見捨てて眠っている弟子と同じです。本当に深くキリストの十字架と向き合っている人物の姿がここにあります。
 このキリストの十字架の愛は、私たちの心の奥底まで照らし、罪を真剣なものとします。「私はあなたに背きました。あなたの愛を乞い求める資格はございません」というような放蕩息子のセンチメンタルな悔い改めを無意味にしてしまうほど深い愛なのです。いくら強情な私たちでもこのキリストの十字架の愛に接する時、心打たれます。
 このキリストの十字架の愛は、私たちの罪を打ち砕き、古い私がキリストと共に死に、新しい私に生まれ変わらせる力なのです。復活のイエスさまは罪と死が滅び去ったしるしです。ここに於いて、神さまと人間は再びしっかりとした絆を得たのです。私たちは、罪赦された罪人としてもう一度生きることが許されたのです。神さまは見捨てられるべき私たちを御子の十字架によって赦して下さったのです。これが決着です。
 私たちは、改めてイエスさまの十字架について思いを深めました。そこには筆舌では表せないような神さまの愛が示されています。神さまの愛の圧倒的な勝利がそこにあります。一つの詩があります。
私は あなたを探しません。
私にはあなたが見つかりません。
あなたが探し 私を見つけるのです。永遠の光よ。

私たちはあなたを愛すること少なく、
あなたに仕えることがないのですが
あなたは私たちを愛して下さる。永遠の僕よ。

 今日、説教題に「それでも」という言葉をつけました。キリストの十字架の愛に心を集中する時、どうしてもつけざるを得なかったのです。「本当にそこまで私を愛して下さるのですか!」という感嘆符をつけた言葉です。私たちが、イエスさまを見失ったときでもイエスさまが私たちを見出し、私たちのために仕えて下さるのです。この「それでも」の中には私たち罪赦された者の万感の思いが込められているのです。罪赦され、新しく生きることを許された群れとして、喜びと感謝の日々を送りましょう。

 

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2011/10/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)