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津田沼教会 牧師のメッセージ
「この最後の者にも」(マタイ20:1-16)
マタイ20:1-16、2011・10・09、イザヤ書55:6-9、フィリピの信徒への手紙1:12-30、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書20:1-16
 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので『あなたたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」




説教「この最後の者にも」(マタイ20:1-16)
 
「この最後の者にも」と本日の説教題を付けておきましたが、これは、昔、マハトマ・ガンジーが書いたパンフレットのような小さな本の題でもありました。内容は、忘れましたが、確かに、本日のマタイ20:1-16の主イエスがなさった天の国の譬えから来ているものでありました。20章の14節の「この最後の者にもあなたと同じように与えることを私は欲する」というみ言葉からであります。
 今日の主イエスの譬えは、「なぜならば、天の国は、次のような一家の主人である人に、似ている、同質的であるからである」と始まっています。本日の記事の直前にも、「で、多くの先の者たちが、後の者たちとなり、後の者たちが先の者たちになろう」とあります。
 ある意味で、本日の記事の前と、本日の記事は、幾分つながっており、本日の福音の記事の終わりでは、同じように、「そのように、その最後の者たちは最初の者たちとなり、その最初の者たちは、最後の者たちになるであろう」と結ばれているのであります。
 私たちは、本日の記事から、何を読み取ることができるでありましょうか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 なぜならば、天の国、神の支配は、以下の人に似ているからであると始まり、その人は一家の主人で、朝早く、市場、あるいは広場へと労働者を自分のぶどう園へと雇うために、出て行ったと始まるのであります。彼は、出て行くと、何もしないで立っている労働者を見出し、一デナリオンで一致して、彼らを自分のぶどう園に派遣したのであります。このぶどう園の譬えを聞いて、この福音書の読者たちは、この一家の主人とは、主なる神であり、ぶどう園とは、神の民、イスラエルを譬えているのだろうと、容易に想像したでありましょう。一デナリオンとは、ローマ帝国で流通していた銀貨で、当時の、たとえば、ネロ皇帝のころの労働者の平均賃金でありました。現代と同じように当時も、エルサレム神殿の建築が終わって、失業者がエルサレムには多かったのかもしれません。
 さて、この中規模経営のぶどう園の主人は、第3刻、すなわち、午前9時にも、第6刻、すなわち、正午ごろにも出かけて、やはり何もしないで立ち尽くしている労働者、日雇い労働者を見出し、彼らにも、正当な給料を払うからと言って、自分のぶどう園に送り出したのであります。さらに、第9刻、すなわち、午後3時頃にも出かけていって、同じようにしたのであります。そして、ついには、第11刻、すなわち、午後5時頃にも出かけていくと、広場には、何もしないでいる他の者たちを見出しました。ぶどう園の主人は、彼らに、「なぜ、お前たちは、何もしないで立っているのか」と言うと、彼らは、「誰も私たちを雇ってくれなかったのです」と答えます。彼は彼らに語ります。「お前たちも、かのぶどう園へと出て行きなさい」
 で、夕方になったので、ぶどう園の主人は、ぶどう園の管理人、現場監督のような人でありましょうか、その者を呼び、最後の者たちから始めて、最初の者たちまで給料を支払うように命じました。最初の者たちがやって来て、一デナリオン、おのおの受け取りました。そして、終わりの者たちはやって来ると、自分たちはもっと多くもらえるだろうと思いました。ところが、彼らも、一デナリオンずつ受け取ったのであります。彼らは、一家の主人に不平を言っていました。「私たちをも、すなわち一日の重荷と燃える太陽の下で労苦した者たちをも、たった一時間しか働かなかった者たちと同じ扱いにするとは」と。
 すると、主人は、彼らの一人に答えて語るのです。「友よ、同志よ、私は、この最後の者にも、あなた方と同じにしてやりたいのだ。私は、何も不正な扱いをあなたに対してしていない。あなたは、私と一デナリオンで一致したではないか。自分のものを受け取って出て行くがよい。それとも、私は、私のものによって欲するとおりにすることができないのか。それとも、私が良い者であるので、妬むのか」と。これは、直訳すると、「私が良いものであるので、あなたの目が邪悪になるのか」となります。
 主イエスはこのように語られ、マタイは、そのように、最後の者たちが、最初の者たちとなり、最初の者たちが最後の者になると本日のみ言葉を結んでいるのであります。
 先日、2回目のことですが、統一教会の信者の方、50前の壮年の方でしたが、話しに、というよりも相談に訪問してきました。別の教会に行ったら、牧師さんが我々とは考え方の根本が違うので、話し合えないと門前払いされて断られてしまったと言われるのです。40分ほど、何かと話して、帰っていかれました。私は、知っている限りの知識を生かして、相談に応じました。一般には異端と言われているのですが、そのような純粋な統一教会への信仰を持っている方もおられるのだと反省させられました。
 私たちは、最初に、明け方の6時頃にぶどう園へと雇われた者でしょうか。それとも、夕方近く、5時頃に、主人にあなた方も、ぶどう園へと行くようにと言われている者でしょうか。私は、訪問して来られた統一教会の方には、夫婦で20年以上もその信仰生活を続けて来られたのなら、その信仰を大事にしていかれればいいのではないですかと言って、帰しました。正統的な教会から見れば、異端の統一教会の熱心で純粋な信徒が、最後には、正統的なキリスト教に気付いて、後の者が先になるということも、神さまの導きによっては起こされうることなのではないでしょうか。
 マタイは、本日の記事を「このように、最後の者たちが最初の者たちとなり、最初の者たちが最後の者たちになろう」と結んでいます。私たちは、多くの時間、多くの人生を主のために働いたから、より多く、後の者たちより、恵み、神のご好意を獲得するわけではありません。最後の1時間を働いた者にも、神は、最初に見出された者たちと同じように、恵みを、ご好意を与えたいと望んでおられます。
 まだ、聖書を、主イエス・キリストを、罪からの贖い主にして、神との和解者として、受け入れていない人たちに対して、三位一体の神を紹介し、働きかけ続ける務めを、私たちは皆、与えられている者であります。私たちは、怠ることが多い者ですが、生きている限り、神である主イエスの恵み、ご好意を、異なる信仰を持っている方々とも対話しながら学び合い、告げ知らせると務めとともに、特権を与えられている一人ひとりなのであります。
 
私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
 




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2011/10/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)