津田沼教会 牧師のメッセージ
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「いと小さき者」(マタイ18:1-14)
マタイ18:1-14、2011・09・18、エレミヤ書15:15-21、ローマの信徒への手紙12:9-18、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書18:1-14
 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつかずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

 「これらの小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」




説教「いと小さき者」(マタイ18:1-14)
 本日の部分は、3つの部分に分かれていますが、このマタイ18:1-14を貫くテーマは、何でしょうか。説教題をつける上でも、本文を読んだだけでは、よく分かりません。3つの部分の共通項として、何とか「いと小さき者」との説教題をつけさせておいていただきました。
 始めの部分は、弟子たちが主イエスに近づいて来て、質問することから始まっています。既に、フィリポ・カイサリアでのペトロの信仰告白を終え、主御自身のエルサレムでの受難予告もなされている後の出来事であります。12弟子たちは、自分たちのうちで一番偉い弟子はだれでしょうかと主に、質問するのであります。主は、一人の子供を、彼らの真ん中に立たせて、言われるのであります。その子供は、ひょっとしたら、ペトロの子であったかもしれません。
 主は、子供のように、自分をひるがえす者にならなければ、天の国へとは決して入ることができないと言われました。子供は、現代でこそ、その美点やかわいさ、純粋さや単純性など認められるようになりましたが、主イエスの時代には、無力な者、しもべのような者、「いと小さき者」として、現代のように重視されてはいませんでした。しかし、主は、子供を指し示して、このように小さき者こそ天の国に入るのであり、人を出し抜いて、この世での栄光や評価を求めがちな私たちに対して、子供を受け入れる者こそ、私を受け入れる者でもあると言われたのであります。
 第二に、「いと小さな者」を躓かせることへの注意を喚起しています。この世は、躓き、主イエスを信じることから離れさせることが必然的に起こりがちなので、災いなるかなと言われています。そして、しかし、その人を通して躓き(転倒、スキャンダラス)が起こるその人は災いなるかな。その人は、首にろばで引き回す大きな石臼をかけられて、ガリラヤの海の深みへと沈められる方が益であるとまで言われます。それは、極悪非道な犯罪人や、政治犯などに課された極刑であったといいます。
 そして、私たちにも、私たちの片手や片足が、あるいは、片方の目が、罪を犯させるなら、それらを切り取って、投げ捨てる方が、五体満足で火の地獄に投げ込まれるよりもましであると言われるのです。
 教会にせっかく来るようになっていた信仰歴の短い人が、私たち自身が罪に陥ったりして、躓きとなるようなことに対して、私たちは余程警戒し注意を怠ってはなりません。
 そして、最後の部分で、主は、なぜならば、これらのいと小さき者たちの天使が、彼らの傍に立って、天におられる私の父を絶えず見つめているからだというのであります。マルチン・ルターも、天使の存在を堅く信じていました。小教理問答書の中においても夕べの祈りで、これから眠る間も天使が見守って平安のうちに眠れるようにしてくださいと祈るように勧めています。
 さて、主は、羊飼いが100匹の羊を持っていた場合に、1匹の羊がいなくなった場合にどう思うかと最後に弟子たちに問いかけられます。99匹を山に残し、捜しに行くのではないか。そして、見つけたなら、元気な99匹にもまして、その羊飼いは喜ぶだろう。言っておくが、天におられるあなた方の父は、これらの小さい者の一人でも滅ぶことは、神のご意志ではまったくないと言われるのであります。私たちは、いと小さき者の一人をも軽んじないように、改めて自戒したいものであります。アーメン。

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2011/09/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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