津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスは主である」(マタイ16:13-20)
マタイ16:13-20、2011・09・11、出エジプト記6:2-8、ローマの信徒への手紙12:1-8、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書16:13-20
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、弟子たちに命じられた。




説教「イエスは主である」(マタイ16:13-20)

本日は、3.11から6ヶ月目の日曜日であります。この未曾有の大地震と大津波、そして、福島原子力発電所の事故をおぼえて、その収束と復旧、復興を願っての主日でもあります。そのような主日にたまたま与えられている聖霊降臨後第13主日の福音は、マタイ16:13-20であります。それをくすしき導きだと思わざるを得ません。本日の記事は、以下のように始まっています。
「主イエスがフィリポ・カイサリア地方にやって来たとき、彼は弟子たちに尋ねていた。『人々は人の子、すなわち私のことをだれであると言っているか。』」主も、多忙の中で働きをこなし、この当時は有名な人物とされていたことでしょう。「彼らは言います。洗礼者ヨハネと、ある人はエリヤだと、あるいは、エレミヤだと、あるいは、預言者たちの一人だと」。
旧約の有名な預言者である人物たちに匹敵すると人々の評価は高まっていたのであります。つづけて、主は、この風光明媚な異教の栄える水のこんこんと湧き出る地、パンの神、牧羊神の神、豊穣の神が栄える地で弟子たちに質問するのであります。「では、あなた方は、私をだれと言うのか。」ペトロが、筆頭の弟子らしく答えます。あなたは、「メシア、生ける神の子です」と。これは、イエスがこの世の人間を超えた主であるということを直観的に答えたものであります。主は、シモン・ペトロに、「このことをあなたに啓示したのは、肉や血、すなわち人間ではなく、天におられる父である」と言ってペトロを祝福し、ほめました。
ところで、ペトロは、完全無欠な弟子とは到底言えない弟子でありました。しかし、このときから、主によって選ばれて、後の教会におけるなくてはならない存在へと変えられるのであります。ペトロは、この直後にも、主の受難予告を否定しようとして、「サタン、引き下がれ」と言われて主に叱責されており、十字架のときも、主を三度知らないと言って見捨てることにもなります。しかし、主はそのような者を選ばれて、「あなたは、ペトロ、その岩(ペトラ)の上に私の教会を建てよう」と、言われ、「あなたに天の国の鍵を授けよう。あなたが地上で縛る、赦さないものは、天上でも、縛られている。あなたが、地上で、解くもの、赦すものは、天上でも赦されている」と言われました。この個所を母胎・根拠として、カトリック教会では、ペトロが最初の教皇であり、それが、継承されて今日まで来ていると考えられています。
私たち、プロテスタントの教会では、では、どう理解すべきなのでしょうか。ペトロは、カリスマ性のあった偉大な弟子でしたが、完全な弟子とは必ずしも言えませんでした。ペトロとは、主のお付けになったあだ名で、石という意味でした。悪く言えば、石頭などという頑固な欠点も備えていました。しかし、主によって、にもかかわらず、教会の礎として備えられたのです。私が、大学生になった頃、モルモン教会にしばらく通ったことがありました。その長老たちの私につけた名前はサイモンでした。それは、考えてみると、ペトロに因んでのことであったでしょう。私も、真面目でしたが、頑固な一面、ペトロのようなところがあるとモルモン教会の長老の青年二人は見ていたのでしょう。
私は、5人兄弟で、兄がおり、亡くなる前の父は、兄は格が違うと私は父に言われたことがありました。私は、悲しく思いましたが、自分が、イエスを主と知らされ、信じていることを思い起こします。パウロが言うように、教会には、必ずしも家柄のよいものや、生まれつき優れている者は少ないのであります。しかし、私たちキリスト者は、ペトロに続いて、あなた方の上に教会(外から呼ばれた者の意味)として、立てられるのであります。  
私には、大きな欠点があり、人に言えない弱さも持っていますが、むしろ、神の与えてくださった賜物に感謝するのであります。常識では考えられないような牧師先生や信徒方との出会いが与えられ、今は教会の一兵卒とされていることを、感謝せざるを得ません。
イエスこそは、私の主であるとの確信を、言わば大ペトロと同様に与えられているのが、私たちクリスチャンなのであります。そのことを覚えて、意気阻喪することなく、新たな歩みに向かいたいと思います。アーメン。

人知では到底測り知ることのできない平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって、守るように。

スポンサーサイト
2011/09/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。