津田沼教会 牧師のメッセージ
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「大きな信仰」(マタイ15:21~28)
マタイ15:21-28、2005・09・04、聖霊降臨後第16主日(緑)
イザヤ書56:1-8、ローマの信徒への手紙11:25-36

マタイによる福音書15:21~28
 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

説教「大きな信仰」(マタイ15:21-28)
 
聖霊降臨後第16主日となりました。私たちは、今年度、すなわち、去年の教会暦のアドベントの12月の頃から、マタイ福音書を中心に一年の教会暦を送っています。本日のマタイ福音書15:21-28は、カナンの一婦人との主イエスの出会いの出来事であります。マルコ福音書にも、同じと思われる出来事がその7:24-30に出ていますが、よく照らし合わせてみるといろいろな違いが分かります。しかし、本日は、マタイの箇所に沿ってもう一度、この日の出来事を思い起こしてみましょう。主イエスはそこから出て、とありますが、どこからかは、よく分かりません。先週の舟で嵐の後に着いたゲネサレトの地、ガリラヤ湖の西側、カファルナウムやもしろデベリアスのあるあたりからだったかもしれません。そこから、チルスや、シドンのほうへと、難を逃れて向かったようにも思われます。主イエスご自身は、イスラエルの地からは、生前は、成長してからは出なかったかもしれません。当時のティルスやシドンの勢力が発展して、ガリラヤの北部、フィリポ・カイザリアのあたりまで、進出していたのかもしれません。とにかく、難を逃れてそちらに向かっていた時とも考えられます。すると、カナンの出身の女、すなわち異邦人の一人の婦人が、主に向かって「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください、エレーソン・メと助けを求めたのであります。
私たちの礼拝の意味も、この女性の叫んだ「主よ、私たちを憐れんでください」と言う言葉に尽きるかもしれません。式文の「キリエ・エレーソン」とは、このときの言葉であります。しかし、このときの主は何もお答えになりません。それで、弟子たちが、「後ろから叫んでいますので、追い払ってください」と要求します。主は、「私はイスラエルの家の失われた羊たちのところにしか、遣わされなかった」と言います。しかし、この女性は、さらに大声で、「主よ、助けてください。私の娘が悪霊に苦しめられています」と繰り前します。主は「子どもたちのパンをとって子犬に投げてやるのはよろしくない」といつもにないそっけない返事です。女は、「はいそうです、しかし、思いますのに、子犬たちも、その主人たちの机から落ちるパンくずはたべるのです」と答えました。すると、主は、ついに、その女性に譲らざるを得なくなります。「おお、婦人よ、あなたの信仰は大きいなあ!あなたがの望むように事がなるように」とついに折れました。そのときから、その娘は癒されたのであります。
これと同じような出来事を皆さんは他の福音の箇所で思い出すのではないでしょうか。そうです、百卒長の異邦人がそのしもべのために、懇願しに来る箇所であります。
救いは、まずイスラエルの民から始められねばなりませんでした。旧約聖書を与えられたのは、世界において、この小さな民のユダヤ人たちでした。私たち日本人もまた、ユダヤ人ではありません。しかし、ユダヤ人たちから救いは始まるのであります。しかし、そのおこぼれから、私たちも救いに与かることができたのであります。ですから、私たちは、決してユダヤ人たちに対して、誇ってはなりません。今もユダヤ人たちは、救いの計画の中にあります。
今日は聖餐式がこのあとあります。それは、本日のカナンの女と同じ立場でいただくものであります。本日の女性は、主から「あなたの信仰は大きいなあ」と感嘆されました。私たちの信仰は小さい、不安定なものでありますが、絶対の信頼を主イエスに寄せる時、主は私たちに対しても、「ああ、あなたの信仰は大きいなあ」と受け入れてくださるのであります。すべての悩み、重荷を主にさらけ出して、新しい1週間へとここから出て行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように!アーメン。




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2005/09/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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