津田沼教会 牧師のメッセージ
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「五千人への供食」(マタイ14:13-21)
マタイ14:13-21、2011・08・21、イザヤ書55:1-5、ローマの信徒への手紙9:1-5、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書14:13-21
 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。




説教「五千人への供食」(マタイ14:13-21)

本日、与えられました福音は、マタイによる福音書14:13-21であります。いわゆる「5千人の供食」と言われる奇跡物語でありまして、共観福音書のみならず、ヨハネ福音書も記しておりまして、最も大事な奇跡物語と言えるものであります。これは、ヨハネによる福音書の2章のカナの婚宴の奇跡と共に、私たちの経験を超えた大いなる奇跡物語であります。4つの福音書が、いずれも独特の仕方で記録していますが、もとになっているのは、マルコ福音書であります。それを頭に置きながら、先ほど、読みましたマタイの記述をもう一度、思い起こしてみましょう。
マタイでは、主イエスは、これを聞くと、すなわち洗礼者ヨハネが殉教したことを聞くと、ただ一人で、あるいは、ひそかに、彼らだけで、舟に乗って寂しい所、荒涼とした地、ある意味では、荒れ野に引っ込まれる、逃れる、退却されるのであります。で、群衆は、それと知って、陸路で、町々から彼に従ったのであります。主イエスは、出て来られると、大勢の群衆どもをお認めになります、そして、彼らの上に、同情されるというのであります。これは、はらわた、とか、内臓という意味の名詞から出てきた動詞で、はらわたがねじられる思いをされたという意味であります。そして、彼らのうちの病人たちを治されたというのであります。群衆とは、12弟子のみではなくて、後の教会となる人々であります。彼らは、主イエスのところに、従ってくるのであります。
夕方になったとき、弟子たちが近づいてきて言います。「時が過ぎました。彼らを解散なさってください。そうすれば、彼らは、村々に出て行って、食物を買い入れることでしょう。」主イエスは、言われます。「彼らはその必要を持っていない。あなたがたこそが、彼らに食べることを与えなさい。」彼らは、答えて言います。「私たちは、ここに5つのパンと、2匹の魚しか持っていません。」これは、原文では、最初に「いない」、最後に~「以外には」と強調されています。パンと塩魚は当時の農夫、庶民の一般的な質素な食事の内容でありました。
主は、「あなたがたは、それらを、ここに持ってきなさい」と言われました。そして、「群衆には、草の上に座るように」命じられました。そして、「パンどもを受け取り、天を見上げて、ほめたたえ、これを裂き、弟子たちに与えられました。そして、弟子たちは群衆どもに」、とあります。
すべての者たちは食べた、そして満腹した。そして、彼らは、12かごを一杯にして、パンくずの残っているものを拾った、とあります。そして、食べている者たちは、女たちと子どもたち以外に、およそ5千人であったと結んでいるのであります。マルコに比べてより要約されており、たとえば、イエスの所作には、魚は出てこず、パンが中心になっているので、パン裂き、すなわち、主の食事、後の聖餐式が示されていると考える人たちもいます。
さて、そもそも、この5千人の供食とは、一体何だったのでありましょうか。ある人たちは、考えました。それは、主イエスの慈しみによって、あるいは、ヨハネ福音書が伝えているようにある寛大な少年がたまたま5つとパンと2匹の魚を出し惜しみしないで、出したところ、そこにいた群衆も、それなら自分たちもということで、それぞれ出し合ってみると、意外にも必要にして十分な、いや、パンくずの余りさえも、拾い集めると、旅行用の12バスケットに一杯になったのだと考えた人もいます。
しかし、この出来事は、もっと神学的な真意を持っているものでありましょう。旧約聖書の出エジプト記等に、出てきます荒れ野でのマナが降って来た出来事や、列王記下4章のエリシャが、10個のパンで、100人の食を満たし、なお、余りがあったという奇跡などが思い起こされます。
主イエスは、私たちが差し出すささげものを軽んじられません。そして、それを、豊に用いて、5千人の者たち、いや、女、子供を含めると、2万人くらいいたかもしれない者たちの肉体的、そしてまた、霊的な必要を満たすことがおできになる方です。
主イエスは、群衆、すなわち、これを読んだ教会の人たち、また、今、読んでいる現代の教会の私たちの飢えを、病気の人々を治されることと共に、満たすことがおできになります。
そして、私たちは、私たち自身の持っているものを、主イエスの御用のために差し出し、主イエスの働きに参加することが求められています。そして、神の恵み、ご好意を、少しでも無駄にすることは、主イエスのみ心ではありません。
荒れ野でのマナの体験のように、私たちは、主イエスとの質素な、しかし、満ち足りた食事の体験を、その最初の群衆たち、最初の教会から受け継ぎながら、今日も追体験することができるのです。
もう絶望かと思えるときがあります。しかし、主イエスと共に、従い歩むとき、主は、私たちを断腸の思いをもって、ごらんになり、私たちの病気を癒し、また、肉体的飢えと霊的な飢えを満たしてくださるのであります。アーメン。
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2011/08/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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