津田沼教会 牧師のメッセージ
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「隠されている宝」(マタイ13:44-52)内海望牧師
マタイ13:44-52、2011・08・14、列王記上3:4-15、ローマの信徒への手紙8:31-39、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書13:44-52
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人がよい真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」




説教「隠されている宝」(マタイ13:44-52)内海望牧師

 ここで、イエスさまは宝つまり「天の国」は隠されているとおっしゃるのです。確かに、二つの意味で、私たちの目には隠されています。
 第一には、私たち人間の罪が天の国を隠れたものにしています。アダムとエバは「食べてはいけない。食べると必ず死ぬ」と神さまから言われていたのに、忠告に逆らって木の実を食べてしまいました。それは、「食べると、神のように善悪を知る者となる」という蛇の唆しに負けたからです。彼らは神さまのようになって、人々を裁くという誘惑に負けたのです。自分を神さまのように絶対化するということが原罪なのです。それ以来、人間の世界は互いに裁き合う世界になってしまったのです。悲しいことですが、私たちは、自分を正しいとし、軽蔑すべき間違った人を自分の周囲に作っているのが現実です。自分を高くし、誰かを見下して生きなければ安心できないのです。今、私たちは「地に平和を」と祈る時を過ごしているのですが、自分を神のように高くするという原罪の延長にあるのが戦争なのです。私たち人間は、「自分たちが正しい」と叫びながら、何千万の人々を殺戮して来たのです。
 このような自己絶対化、自分を神とする、という生き方をする人間にとって真の宝を見出すことは出来ません。イエスさまが、「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある丸太に気付かないのか」と嘆いていらっしゃるのは当然です。私たちは、いつも自分が正しいし、自分の正義をふりまわして他人を貶めているのです。このような目には、天の国は隠されてしまっているとイエスさまはおっしゃるのです。宝が隠れているのではありません。私たちの心が、宝を隠されたものにしてしまっているのです。
 イエスさまは、私たち人間の世界で罪人として裁かれている人々、軽蔑されている人々、無視されている人々と共に歩まれた方でした。徴税人や罪人と共に食卓を囲み、石打ちの刑に処せられようとしている罪の女性のために祈り、村から追い出されている重い皮膚病の人々を癒し、異邦人であるローマの百人隊長の僕を癒し、サマリアの女性と交わりを持ち、新しい心を与えられた方です。
 既に、イエスさまに救われた人々にとっては、イエスさまの生き方は福音、良い知らせなのですが、自分を神として生きている人々にとっては、恐ろしい存在です。純粋に、愛に生きる人が近くにいては迷惑なのです。そのような人は自分たちの偽善と傲慢が暴くものでした。そこで、彼らはイエスさま殺害の計画に走ったのです。12章を読むと、イエスさまが安息日に手が不自由な人を癒されたのでファリサイ派の人々が殺害計画を練り始めたと書かれています。
 ここで、私たちは「何たることか」とファリサイ派の人々に憤る前に、立ち止まって自分自身の心を見つめてみましょう。
 私たちは、聖書を通してイエスさまの生涯を知った時、そこに福音を感じ取りました。そのイエスさまの姿に惹かれて教会の門をくぐった人々も数多くいます。しかし、もしイエスさまが現実に私たちの隣人として生きておられたらどうでしょうか。すべてを与え、愛に生きる人がそばにいるのは迷惑です。そのような人はいなくなればよいと考えるのではないでしょうか。
 実は、私たちの心にも、あのファリサイ派の人々と同じ心が潜んでいるのです。「イエスさまが再びこの地上に来られても、やはり人間はイエスさまを十字架につける」という警告は真実なのです。私たちがファリサイ派なのです。アダムの罪は、私たちにもつながっているのです。アダムの罪が原罪と呼ばれる理由がここにあります。
 それにしても、イエスさまの生き方は徹底していました。「私は、仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:46)とおっしゃったイエスさまですが、文字通りそのように行きぬかれました。

 ここに、宝が隠されている第二の理由があります。
 パウロは、「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者にとっては神の力です」(コリント一1:18)と語っています。人間にはイエスさまの生き方は愚かに見えるというのです。
 イエスさまは埃にまみれ、足をすり減らして町や村を残らず回って、会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされました。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた」(マタイ9:35)のです。「憐れむ」という言葉は「はらわたが引き裂かれる思い」「断腸の思い」という意味であることは以前申し上げました。そのような切実な思いを持って、すべての人々に仕えて下さったのです。文字通り迷える羊に寄り添い、罪人を見捨てず、仕える道を歩み通されたのです。しかし、最後は十字架につけられ死んでしまわれたのです。神さまの独り子が無残にも十字架で死んでいったという出来事はまさに愚かさと弱みの極みであったと言えるでしょう。パウロが言うように十字架の言葉は愚かに見えます。
 聖金曜日を「信仰の暗闇の時」と呼んだ人がいます。天の軍勢の助けもなく、人々の嘲りの声の中で息を引き取られたイエスさまを見つめる弟子たちの心は全くの暗闇であったでしょう。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と十字架上で祈るイエスさまの姿を見る時、人々には神さまが見えない、神さまの働きが感じられなかったでしょう。そのようなつらい経験は私たちの人生にも起こり得ることです。神さまは不在なのではないか、と肩を落とすような経験です。聖金曜日に、弟子たちは、そこに天の国の断片も見出すことが出来ませんでした。天の国は全く見えませんでした。

 ところが、このイエスさまが三日目に復活されたのです。この時、隠された宝がはっきり見えて来たのです。イエスさまが息を引き取る最後の言葉が「成し遂げられた」というものであったことをヨハネ福音書は伝えてくれています。イエスさまの十字架は神さまのひとり子の無残な死で終わるのではなく、神さまの救いのみ業が成し遂げられた瞬間であったというのです。復活のイエスさまは、愚かさと、弱さの極みにある人々の重荷を負い、十字架の苦しみと死を経験された方です。そして今、罪と死に対する勝利者として復活されたのです。
 言い換えれば、罪と死に怯える私たちすべてに最後まで寄り添って下さったのです。イエスさまの復活と共に私たちも罪赦され、復活の命に与る者とされたのです。
 ここに今日の第二の日課としてローマ8章31節以下が選ばれた理由があります。「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。その御子をさえ惜しまれずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを賜らないはずがありましょうか。・・・私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力ある者も、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。」雄大な勝利の賛歌です。
 私たちが「神は死んだ。罪と死が勝利者だ」と叫んで絶望の暗闇に沈んでいる時にも、イエスさまは、その私たちの苦しみと共に苦しんで下さっていたのです。そして、救いの業を成し遂げて下さったのです。これこそ隠されていた宝なのです。これを信じる時、私たちも、今日のたとえの人にように、喜びのうちに持ち物すべてを売り払ってでもこの宝を手に入れようとするでしょう。「喜びながら帰り」という心は良く分かります。
 47節以下の世の終わりの出来事も福音として理解できます。「毒麦を今は抜くな」とおっしゃったイエスさまは、「時はある。悔い改めよ」と呼びかけて下さっているのです。終わりの日まで待っていて下さる方なのです。
 復活のイエスさまに与る者として、悔い改め、新しい命に生きる者として、パウロの賛歌を共に歌いながら日々を歩みたいと思います。アーメン。
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2011/08/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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