津田沼教会 牧師のメッセージ
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「剣を打ち直して、鋤とし」(ミカ4:1-5)
ヨハネによる福音書15:9-12、ミカ書4:1-5、エフェソの信徒への手紙2:13-18、2011・08・07、平和の主日(典礼色―赤―聖餐式)

ミカ書4:1-5
 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 もろもろの民は大河のようにそこに向かい
 多くの国々が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
 主は多くの民の争いを裁き
 はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。

 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
 いちじくの木の下に座り
 脅かすものは何もないと
 万軍の主の口が語られた。
 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
 我々は、とこしえに
 我らの神、主の御名によって歩む。



説教「剣を打ち直して鋤とし」(ミカ4:1-5)
先日、8月の1、2、3日と三日間にわたって、浜松市の浜名湖、湖岸にあります「かんざんじ荘」というホテルで、イエスの友会の第86回、夏期聖修会に出席してきました。イエスの友会というのは、賀川豊彦牧師を中心にその働きを支えた牧師や信徒から成る集団でありますが、高齢化が進み、40名弱ほどの出席者でありました。「敬虔、労働、純潔、奉仕、平和」という5綱領を掲げる集まりであります。昨年が賀川の献身100年ということで、それを記念していろいろな行事が行われたようであります。
今年の聖修会には、伴武澄という共同通信社に勤めた新聞記者が、講師として招かれました。二日にわたって講演されたのですが、二日目の講演は、いみじくも、「世界連邦はあり得るのか」と題したものでありました。結論的に振り返りますと、ヨーロッパのEUのような政治経済体制がアジアなどにも広がれば、あり得るというものであったと思います。
 さて、本日は、JELCでは、平和の主日であります。本日は、いつもと違って、第一の朗読、旧約聖書のミカ書4:1-5から、み言葉を聞きたいと思います。皆さん、本日の第一の朗読を聞きまして、有名なみ言葉が耳に残っていることだと思います。すなわち、「彼らは剣を打ち直して、鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって、剣を上げず、彼らは、もはや戦うことを学ばない」というものであります。これは、イザヤ書の2章にも共通した表現があり、ニューヨークの国連本部の建物に、このみ言葉が記されているとのことであります。しかし、依然として世界には、今も紛争、戦争があり続け、歴史的にみても世界に戦争がなかった時代というのはないほどであります。
 ミカ書が書かれた時代、あるいは、先ほどのイザヤ書の書かれた時代も、中近東は、アッシリア帝国からバビロン帝国、そして、ペルシャ帝国と戦争に翻弄された時代でありました。そういう中にあって、本日のミカ書4:1-5が与えられているのであります。イザヤ書と比べると、ミカ書のこの記事がまとめられた時代は、より後の時代のようでありまして、イザヤ書よりも進化した文章構成になっているようであります。もう一度、ミカ書の記事を思い起こしてみましょう。
 「終わりの日に、もろもろの峰よりも、主の家の山は、高く上げられ、諸国民が大河の流れのように、この山へと流れてくる」というのであります。終わりの日に約束されていることなのであります。もろもろの国民が、まわりの峰々、たとえば、ガリラヤ湖からずっと北のヘルモン山よりも、高く上げられるシオンの山、エルサレムの山に向かって、そしてその主の家に向かって流れ来たるというのであります。そして、諸国民は、「彼、ヤコブの神、主から私たちは教えを教わり、主の道、旅路において、歩もう」「なぜならば、シオンから教えは出てくる、そして、主のみ言葉はエルサレムから出て来るからである」というのであります。
 イスラエルが戦いに明け暮れ、敗北し、政治が混迷し、宗教も堕落していたときに、3章の直後に、本日のみ言葉が、与えられるのであります。そして、「彼らは、剣を打ち延ばして、鋤、あるいは鋤の刃とし、槍も同様にして、刈り取り鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや、戦闘することを学ばない。」そして、「人はおのおの、自分の所有する土地、畑のぶどうの木、あるいはいちじくの木の下に座り、恐れることなく」、労働を楽しみ、労働に勤しむというのであります。そして、なぜならば、万軍の主の口がそう告げるからであると。
 また、少し、遡りますが、彼、主は、はるか遠くの強力な国民あるいは国家をもその法廷で評決するというのであります。小国であったイスラエルの主の家、シオン、エルサレムの山に、終わりの日に、その評決を受けるために、すべての国民が流れ来るのであります。
 そして、最後に、「なぜならば、すべての民、国民は、彼らの神の名において歩く。しかし、私たちは、私たちの神、主の名において、とこしえからとこしえまで、歩む」と結ばれているのであります。
 8月6日は、広島に、原子爆弾が投下され、8月9日には、長崎に、同様に原子爆弾が投下されました。さらに、今年は3月11日の東日本大震災と福島の原子力第1発電所の原子炉が津波によって水素爆発し、平和について考えるのにふさわしい時を迎えています。
 ミカ書の記者は、終わりの4:5節で、なぜならば、すべての民は、おのおの彼らの神の名において歩むと言っています。世界のすべての民に、イスラエルの神の名において歩むことを、前提にはしていません。他の民に改宗を強制したり、改宗すべきだと言っているわけでもありません。
 私たちも、キリスト教をすべての人に強制することは願うべきことでもありません。主イエスも、サマリアの女とのスケルの井戸での出会いで、この山、すなわちゲリジム山でも、エルサレムにおいてでもなく、霊と真理において礼拝すべきときが来ていると言われました。
 小さな弱小国であったイスラエルの預言者が、あるいは、その編集者が、本日のミカ書4:1-5を綴っているのであります。「国は国に向かって剣を上げず、人々はもはや戦うことは学ばない」とミカは言いますが、世界平和は、いまだに実現していません。それは、ミカが最初に記しているように、終わりの日、終末の時の出来事であるのかもしれません。しかし、私たちは、世界平和の日が一日も早く成りますようにと願い、努力することが、本日のみ言葉によって、求められているのであります。
 「世界連邦はあり得るのか」と講演してくださった伴武澄氏は、昔の世界は、今のように国境が定かではなかったと言います。日本は島国ですから、国境が比較的はっきりしていますが、世界は、民族が入り混じり、世界平和はなかなか実現できなかったというようなことを言っておられましたが、世界は狭くなり、もはや一国一国の国益だけで争い合う時代ではなくなってきているでありましょう。
 そして、私たちは、本日のミカ書の言葉を、まずは、身近なところから、家庭から実践していくべきでありましょう。家庭において団欒のときが、現代日本では失われてきていると言われます。身近なところでの憎しみや偏見をなくしていくこと、違いを認め合うこと、等が、やがては、世界平和へとつながっていくのではないでしょうか。
 この夏、お盆を中心に出会います家族や知人、友人たちとの間で、お互いに愛し合うことから、私たちは、小さいながらも世界平和への架け橋として歩んでいきたいものであります。
祈ります。
愛しまつる父なる神さま。
今年も、特に平和を覚える8月を迎えています。どうか、私たちが、家庭で、職場で、あるいは、教会で、互いに愛し合うことを実現させてください。人と人との憎しみが募って戦争へと拡大していきます。世界の指導者たち、政治家や、経済界の人々が、世界平和のために尽力できますように、あなたが、先頭に立ってお導きください。
私たちが、日常の中で出会いますすべての人と、できるものなら、平和に過ごせますように。たとえ右の頬を打たれても、左の頬をも向けることができますように。あなたが、私たちの罪を赦してくださったように、私たちも兄弟の私たちに対する罪を赦し得ますように。そのために、み言葉から離れることなく、常にみ言葉によって、養われていくように、私たちを憐れんでください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたを守るように。
 
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2011/08/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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