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津田沼教会 牧師のメッセージ
「弟子であることの厳しさと報い」(マタイ10:34-42)
マタイ10:34-42、エレミヤ書28:5-9、ローマの信徒への手紙6:15-23、聖霊降臨後第5主日(典礼色―緑―)、2011・07・17

マタイによる福音書10:34-42
 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
 人をその父に、
 娘を母に、
 嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」




説教「弟子であることの厳しさと報い」(マタイ10:34-42)
 
特伝が2週間にわたって、続きましたが、再び、主たる福音書としてマタイ福音書に帰って、聖霊降臨後の主日を歩んでまいります。
本日与えられている福音はマタイ10:34-42であります。マタイ10章は5節から、弟子たちの伝道、宣教の困難さ、厳しさを主イエスが予告している部分であります。本日の個所の直前の10:32-33節も自分を、人々の前でわたし、すなわち、主イエスの仲間だと言い表すものは、わたしも、天の父の前でその人を私の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天の父の前でその人を知らないと言うと主は語っておられます。
 今日は、それに続く主のお言葉でありますが、それは、弟子であることの厳しさ、困難さ、苦難などについて、主イエスは予告されているのであります。しかし、それと共に、最後の1節では、これらの小さい者たちの一人に、わたしの弟子の名前へと、冷たい水1杯でも飲ませてくれる者は、はっきり言っておくが、その者の報いを決して失うことはないであろうと、約束されているのであります。
 主イエスの語られたお言葉を思い起こしてみましょう。主は、わたしがこの地に向かって、イスラエルの地に向かって平和を投ずる、もたらすために、来たと、あなた方は思わないように。そうではなく、かえって、剣をもたらすために、来たと言われるのであります。
主は、人類、世界に平和、調和、福祉をもたらすために、来られたのではなかったでしょうか。地には平和がみ心に適う人に、天では神に栄光があるようにと、クリスマスの夜に天使たちは歌ったのではなかったでしょうか。しかし、主イエスがお出でになられた結果は、終末のときの平和ではなく、まずは、現在、主イエスの到来において、この地上に剣をもたらすことになるのであります。
 主は、ミカ書7:6を引用して、語られます。なぜならば、わたしが来たのは、人をその父に対して、娘をその母に対して、嫁をそのしゅうとめに対して分離、対立させるためだからであり、その人の敵はその家の者たちであるからである、と厳しいことを言われます。
 そして、主はわたし以上に、すなわち、わたしを超えて、父や母を大事にするものは、わたしにふさわしくない、相当しない。わたしを超えて、息子や娘を大事にするものも、わたしに相当しない。自分の命を見出そうとした者は、かえって、自分の命を失うであろう。しかし、自分の命を、わたしのために、失ったものは、かえって命、真の自己自身を見出すであろうと言われました。
 他の福音書によれば、自分の命をも憎まないものは、わたしの弟子ではありえないとまで、主は言われています。
私たちは、自分の家庭において、あるいは身内において、その親しさ、近さのゆえに、かえって、言葉と行いと思いにおいて、罪を犯し、夫婦、親子などにおいては、自然の愛着のゆえに、試練と苦難にあっているのが実情ではないでしょうか。
 しかし、主は、そういう近い者たちを、また、自分自身を、主イエスを超えて愛するならば、わたしに相当しないと言われ、自分の十字架を背負って、わたしについて来ない者は、わたしに相当しないと言われるのであります。これらの言葉は、巡回宣教者たちに向かって、主は語られているようにも思われます。しかし、そうではないのであります。
 それを、指し示すのが、10:40-42であります。この最後の部分で、主は、締めくくりの言葉として、以下のように語られています。
 あなた方を、客として受け入れるものは、わたしを受け入れるのであり、わたしを客として受け入れるものは、わたしを遣わした方を受け入れるのである。
 また、預言者を預言者の名前へと客として受け入れるものは、預言者の報いを受け取るであろう。また、正しい人を、正しい人の名前へと受け入れる人は、正しい人の報いを受け取るであろう。そして、はっきり、あなた方に言っておくが、この小さな者たちの一人に、弟子の名前へと、冷たい水一杯でも飲ませてくれるものは、彼の報いを決して失うことはないであろうと言われています。
 わたしは、牧師であり、主イエスの宣教と牧会のために、按手を受けたものであります。しかし、本日の個所は、牧師や宣教者や内陸巡回説教者のような特別な人々に対して、主は、これらのお言葉を語っているわけではなく、すべての信徒、すなわち、すべての弟子たちに向けて本日のお言葉を語っておられるのであります。
 わたしたちの教会、津田沼教会も、経済的な問題や、いろいろな課題を抱えています。しかし、本日のみ言葉によって、すべての教会員が、求道者が、主に従っていくことの厳しさと共に、弟子の名へと、弟子であることのゆえに、冷たい水一杯でも、飲ませてくれる人々にまでも、その報いは決して失われることはない、徒労に終わることはないとの約束を与えられているのであります。
 わたしたちを、水一杯だけでも、もてなしてくれる人にも、その人の報いは失われることがないと言われます。わたしたちを、応援してくれている身内や、親戚、また、友人たちまでもが、その報いに与るというのです。
 専従で宣教に関わる者とされている者も、もう自分は、礼拝や家での祈りでしか、主イエスの弟子として応えられないと思われている方も、同じように確かな、大きな報いが与えられていると言われるのであります。わたしたちは、これらの言葉に力づけられ、励まされて、勇んで1週間の新たな生活へと押し出されていきましょう。

 人知では到底図り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
 
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2011/07/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)