津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主に従う群れの幸よ」(ヨハネ10:1-16)
ヨハネ10:1-16、使徒言行録6:1-10、ペトロの手紙一2:19-25、復活後第3主日(典礼色―白―)

ヨハネによる福音書10:1-16
 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために他ならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。


説教「主に従う群れの幸よ」(ヨハネ10:1-16)

 復活後第3主日の福音は、ヨハネ10:1-16が与えられています。本日の福音も、来週の復活後第4主日の福音ヨハネ14:1-14も、それ自体としては、復活の記事そのものであるとはいえませんが、深い所で、主の御復活と関連があるのでありましょう。これらは、それぞれローマ・カトリック教会の同じ主日の福音記事でもあります。
いろいろなたとえ、格言とも言える表現を主イエスは、本日の記事でのべておられます。よくよく、あなた方に言っておくと主は語り出します。9章の盲人の癒しに続く10章なので、あなた方とは、ユダヤ人たち、ことに、ファリサイ派の人たちのことであります。彼らは、主イエスをメシアと認めようとしないのであります。それで、主は、本日のたとえ、ことわざをお語りになります。羊の囲い、檻の戸口からやって来ず、囲いを這い上がって、やって来る者は、盗人であり、強盗である。羊たちは、羊飼いの声を知っていて、羊飼いにはついて行くが、知らない人、その他の人たちにはついていかない、羊たちは、彼らの声を知らないからであると言われます。
このたとえを聞いて、ユダヤ人たち、特に、ファリサイ派の人たちは、何のことなのか分からなかったというのであります。羊であるのは、私たち、キリストに従う信者のことであり、羊飼いとは、私たちを導く主イエスのことであります。現在、プロテスタント教会では、神父様とは言わず、牧師と言いますが、牧師とは、羊を飼う者、羊飼いのことを指しています。そして、羊の大牧者が、主イエスなのであります。
さて、主は、さらに、たとえて、言われます。私は、羊の門である。羊たちの戸口であると言われるのであります。私たちは、主イエスを通して、天への、あるいは、神の国への、あるいは命への戸口を入るのであります。主は、まことの良い羊飼いであり、それと共に、御自分を門であると言い、御自分の門、戸口を羊たちは出入りし、牧草、救い、命に与ると言われるのであります。私たちは、日本ではあまり羊を見ませんが、主イエスの国、ユダヤでは、このたとえを聞いている人々は、その情景がよく分ったことでしょう。 
そして、主イエスは、私は、良い羊飼いであり、羊のために命を差し出すと言われるのであります。主は羊のために、御自分の命を与え、それを、父なる神によって、差し出し、また、復活の命も与えられると言うのであります。羊の門を通らず、別の囲いを通って入る者は、盗人であり、強盗であると、主は言われ、また、自分より先に来た羊飼いたちも、そうであると言われます。
旧約聖書で約束されていたメシアは、御自分であり、それ以前に現れていた偽メシアは、同じように、盗人であり、強盗と言われるのであります。狼がやって来るときには、偽メシアは逃げ出し、雇い人も逃げ出し、狼は、羊たちをひったくり、追い散らすというのであります。
私たちは、主イエスの声を聞いて、聞き分けることができます。偽物のキリストを主イエスのたとえや、言葉を通して、見抜くことができます。それらしきものは、今も絶えず信仰宗教として、私こそ、再来のキリストであると名乗る偽メシアが現れます。しかし、良い羊飼い、私たちのために命を差し出されたお方は、主イエスの他にはおられないのです。主は、私には、この囲いの外にも、導くことになっている群れがいる。そして、彼らは、一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろうと、本日のみ言葉を終えています。私たちは、主イエスによって言われた囲いの外にいた異邦人であった群れであります。そして、まだまだ、その囲いの中に入る群れが待っています。いまだに、教会の外にいる同じ羊の群れがあり、主は、私たちを用いてその羊たちをも呼び入れることになっていると私たちへ託されているのであります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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2011/05/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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