津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主が立ち上がらせた者」(マタイ14:22~33)
マタイ14:22-33、2005・08・28、聖霊降臨後第15主日(緑)
列王記上19:1-21、ローマの信徒への手紙11:13-24、

マタイによる福音書14:22~33

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

説教「主が立ち上がらせた者」(マタイ14:22~33)
 この残暑がまだまだ残っていますときに、私たちは8月の最後の日曜日、聖霊降臨後第15主日を迎えています。そのために、私たちに与えられている福音書の箇所は、マタイ14:22-33であります。先週の5000人への供食の記事に続いて、この真夏にふさわしい主イエスと使徒ペトロのガリラヤ湖での水上歩行と言いましょうか、通称「海」とも呼ばれていますその上を歩き回るという不思議な出来事の箇所が与えられているのであります。また、第一の日課では、列王上19章の1節から21節までの、エリヤがアハブ王の后イゼベルの追っ手を逃れて、シナイ山まで進み、ついに神の小さなささやきを聞いて、また、預言者としての使命のために、戻っていくという記事が与えられています。私たち、キリスト者が社会の厳しい現実の中で、どのように耐え、あるいは歩むべきかが、そこでも示されているのではないかと思います。
 特に、いつものように、福音書の記事を通して、その出来事が私たちにとってどのような意味があるのかをしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 さて、先ほども言いましたように、本日の福音書の記事は、5000人への供食にそのままつながっている記事であります。その出来事は、使われている言葉などから、マタイの記者は、どうも聖餐の設定、聖晩餐の意味を私たちに思い起こさせるものだと先週はご一緒に考えさせられたのであります。
 さて、本日の出来事も、脈絡からは同じ夜に起こったものとして記されています。先週の出来事が、出エジプト記の荒れ野での40年間、マナという天からの糧をえて、約束の地に帰ってきた出来事と比較されるのに対し、本日の主イエスの湖上の歩行、また、短いながらも、同じように、海の上、水の上を歩行したペトロの出来事は、同じく出エジプト記のイスラエルの民の葦の海が干上がらされて、そこを徒歩で横断できた出来事を思い起こさせます。ただし、それなら、順序が逆になってしまいますが。しかし、マタイは、福音書の始めから、モーセとイエスを対にして考えており、しかし、イエスは、モーセよりもはるかに偉大なモーセと言いましょうか、旧約聖書の時代から待たれていたメシアとして、対比しながら描いています。
 さて、本日の出来事をもう一度、思い起こしてみましょう。「遅くなった時」、イエスは、弟子たちに自分より先に向こう岸に渡るようにしきりに招きます。そして一方で、群衆を解散し、ご自分は一人だけで、祈るために山に上られます。迫ってくる受難のときに備えるためだったのでしょうか。あるいは、弟子たちに湖上で起こることを知った上であえてそのことのために、ご自分は後に残られたのでしょうか。一人、山に上られる主イエスはここでも、イスラエルの民を後に残して、シナイ山に一人で上ったモーセを思い起こさせます。
 さて、弟子たちの舟は、岸をはるかに離れていましたが、波によって苦しめられていました。それは、激しい向かい風だったからです。そして、夜明けごろ、すなわち、第四の見張りの頃、午前3時から6時にかけてですが、主イエスは歩き回りながら、彼らに向かって海の上をやって来ます。弟子たちは、おそらく主イエスの幽霊である、あるいは幻影であると思って、恐れから大声をあげます。
 そのとき、主イエスは、「安心しなさい、勇気を出しなさい。私である。恐れることはない」と言われました。旧約聖書では、主なる神以外に海上の波の上を踏み砕く方はおられないと考えられていました。そして、海とか大水は、得体の知れない混沌・カオスを表し、人間にとっての悩みや苦しみなどをも象徴するものと考えられていました。
 「私である」という言い方は、モーセが会うことができた神がわたしは「ありて、ある者」と言われた言い方で、「いつも私たちと共にいてくださるお方」という意味とも考えられています。主イエスは御自分をそれと同じように表現されたのであります。
 そのとき、ペトロが言いました。「主よ、あなたでしたら、私をあなたのところまで同じように歩いてやってくるようにと命じてください」。主イエスは「やってきなさい」と言われました。ペトロは、主のもと、大水のほうへと歩き始めます。しかし、激しい風を見て恐ろしくなり、沈み始めました。そして「主よ、助けてください」と大声で叫びます。主はすぐに、手を伸ばされ、彼を捕まえました。そして、「何へと疑ったのか、信仰の小さい者よ」と言われました。そして、彼らが舟へと上がると、風は静まります。船の中にいた弟子たちは言います、「本当に、あなたは神の子です」と。マタイの弟子たちは、「信仰が薄い者たち」と主に叱咤激励されることはありますが、しかし、主を「神の子、メシアである」と理解し、告白することのできる弟子たちであります。
 この世の混沌としたもの、どろどろとして掴み難いもの、それを征服できる方は神から来られた独り子主イエスのみであります。弟子たちはそのことを理解できました。しかし、ペトロの浮き沈みは、私たち、キリスト者の現実そのものであります。わたしたちの罪を克服し、解決できる方は、このお方以外には、私たち人間には与えられていないのであります。主が舟に乗り込まれると、激しい風や波は治まりました。この舟とは私たちがつながっています教会を表しています。このお方と共に歩むなら、大水も、海も、悩みもどんな困難も克服していくことができます。「私はもうだめだ」と感じる時がありますが、主イエスはそんなときにも、私たちが信頼していく限り、逃れの道をも備えてくださいます。「私である、恐れるな」との主のお言葉に改めて信頼しつつ新しい1週間を始めたいものであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 



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2005/08/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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