津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主、弟子たちに現れる」(ヨハネ20:19-23)
ヨハネ20:19-23、使徒言行録2:22-32、ペトロの手紙一1:3-9、復活後第1主日(典礼色―白―聖餐式)

ヨハネによる福音書20:19-23
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


説教「主、弟子たちに現れる」(ヨハネ20:19-23)
 
本日の福音は、ヨハネ20:19-23と短い個所ですが、19-20節と21-23節に分けられます。先週の福音20:1-18に続く記事で、弟子たちは、主がマグダラのマリアと出会われたことを知らされているはずですが、ユダヤ人たちを恐れて、戸は皆、鍵をかけていたのであります。それは、安息日から一日目、すなわち、週の初めの夕方遅くなってのことでありました。彼らは、主イエスを十字架にかけたユダヤ当局の者たちを恐れていたのでありましょうが、このヨハネ福音書が書かれた紀元1世紀ころのユダヤ教からの厳しい迫害にあっていたキリスト者たちをも、表わしているでありましょう。
 彼らが、いずれの戸口も鍵をかけてあったにもかかわらず、主がやって来られます。そして、彼らの真ん中に立ち、「平和があなた方に」とおっしゃられるのであります。これは、普段の挨拶として、「こんにちわ」、とか、「おはよう」「さようなら」といった便利な言葉で、ヘブライ語では「シャローム」という言葉であります。しかし、もっと深い意味を表わす場合もあり、ここでは、「主が与えて下さる平和」、あるいは、さらには、「福祉」とか「健康」とかを意味する言葉であります。主は、弟子たちと別れる前に、「あなた方は、泣き悲しむが、それは、喜びへと変わる。」あるいは、「私が与える平和は、世が与えるような平和ではなく、変わることのない完全な平和である」とおっしゃっていました。
主は、両手の傷跡と、槍で突かれたわき腹を示して、再び「平和があなた方に」と祝福なさるのであります。彼らは、主を見て、喜んだとあります。主イエスは、弟子たちに、息を吹きかけられて、「あなた方は聖霊を受けなさい」と言われます。創世記に、主なる神は、土、アダマから人を造り、その鼻の中へと息を吹き入れると人間、アダムになったとあります。主イエスも同じように弟子たちに、息を吹きかけて、主を見捨てて逃げ去った弱い人間であったものから、新しい人間、被造物になさるのであります。この弟子たちとは、12使徒だけではなかったでありましょう。そして、主は言われるのです。「父が私を遣わしたように、私もあなた方を送る」と。そして、聖霊を受けるとは、やがて、洗礼を受けることにつながったでありましょう。父なる神が、み子を遣わしたように、今度はみ子によって、弟子たちが送り出されるのであります。そして、主は、本日の最後の節20:23において、不思議な言葉をはかれます。「あなた方が、だれだれの罪どもを赦すならば、その罪どもは、彼らに対して赦されているが、あなた方が、だれだれの罪どもを握るならば、その罪どもは、握られている」、と言われているのであります。この復活の主の言葉は、難解で、人の罪を赦したり、握って赦さないということは、罪の告解を受けたりする聖職者たちだけにかぎられているのではないかと考えられたりしました。しかし、ここでは、弟子たち一般が罪を赦し、あるいは、赦さない権能を付与されて、この世界へと送り出されて行くのであります。それは道徳的な罪や行動上の罪というよりも、キリストを信じない罪を弟子たちは裁く権能も与えられるということであります。
主イエスの御復活によって、弟子たちは、まったく新しい人間に造り変えられ、聖霊を受けて、新しい人間として、復活の主から委託を受けて、この世界へと遣わされていくのであります。次週の本日の記事に続く福音20:24-29では、弟子たちは、再び、戸をすべて鍵をかけて、集まっていました。トマスも今度は一緒にいました。しかし、彼らは、そこでも、自分の心の戸をも閉じていたのでしょう。八日後、1週間ぶりの主日に、そこに、主は再び入って来られるのであります。私たちの津田沼教会に属する人たちも、毎週、主日すなわち、主の復活された日に、主に出会うために、聖卓のまわりに、集まり、本日は聖餐式もあります。私たちの心の戸を閉じているような場合にも、主は、そこを通過して、私たちと一つとなるために、やって来てくださいます。
 私たちは、なるべく、体の許す限り、聖卓のまわりに、集まり、聖餐にあずかり、主と出会っていこうではありませんか。マルチン・ルターも、聖餐には、自分はとても与りがたいと思われる時こそ、努めて、聖餐を受けなさいと忠告しています。
 主の御復活のこの日に、弟子たちのもとに「平和があなたがたに」あるようにと、仰って、鍵のかかった戸を通り越してやって来てくださいました。私たちも、主の体と尊い血に与って、新しい人間として、ここから、派遣されて行きましょう。
 
望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
 
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2011/05/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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