津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ご復活の主は生きていたもう」(ヨハネ20:1-18)
ヨハネ20:1-18、使徒言行録10:39-43、コロサイの信徒への手紙3:1-4、復活祭(典礼色―白―聖餐式)

ヨハネによる福音書20:1-18
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石がとりのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方がペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所に置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。



説教「ご復活の主は生きていたもう」(ヨハネ20:1-18)

今年の復活祭は、忘れがたい復活祭となっています。それは、未曾有のと言ってもいい東日本大震災を経ての復活祭であるからであります。まだ、新聞などでは、大震災の報道が、小見出しでピックアップされて続いています。一昨日でありましたか、新聞に、宮城県の石巻市の大川小学校を今年6年生で卒業する女子生徒がいまだに行方不明であるが、その弟の子が6歳で、つい先だって別の小学校を借りて、大川小入学式が遅ればせながら行われたことが出ていました。お姉さんは、ランドセルだけが泥まみれで発見され、一番下の妹の2歳の女の子は、この春から保育所に入学で、3人とも「新入学」を迎えるはずでありました。中学校の先生をしているお父さんは、入学式に司会進行を務め、同じ年の女子生徒を見るとやはり目が赤くなるのをどうしようもなかったと言います。お母さんは、男の子の晴れの入学式で、泣くまいと思っていたけれど、小晴さんも歌った校歌を聞くと涙が出て止まらなかったとのことであります。よく気が利いてよいお姉さんだったのに、「私はよく怒って、だから、出て来ないのかしら」と悔やなだと書かれてありました。震災後に、遅くなっていただいた小学校の卒業アルバムの娘を見て、両親は、用意してあった中学の学生服を使って合成写真を写真館で作ってもらったそうです。このような痛増しい出来事がたくさんおこったことでしょう。
昨日も、夜7時のニュースを、ちょっと見たのですが、ローマ法王が、日本の被災地の女の子とテレビを通して、やりとりしている一場面を見ました。女の子は、「どうしてこんなに悲しい出来事が起こるのですか」と法王に質問していました。ローマ法王は、「私にも分かりません。ただ、私たちはお助けできることを精一杯努力してやりたいと思います」というふうなお答えをしていました。
さて、このような長く、辛い四旬節でありましたが、本日は、主のご復活を祝う復活祭であります。本日、与えられました福音、良き知らせは、ヨハネ20:1-18であります。これは、前段の20:1-10と後段の20:11-18から成っています。本来は、別々の伝承であったものをヨハネ福音記者がひとつにまとめたものと考えられます。
まず、前段では、マグダラのマリアが、週の初めの日、すなわち、日曜日の朝まだ暗いうちに、墓にやって来ます。ところが、墓を閉ざしていた大きな石が、既に動かしてあったのであります。マリアは、それで、ペトロともう一人の弟子のところに走ってやって来るのであります。そして、「人々が主を取り去りました。主がどこに置かれているのか、私たちには分かりません」と言いますと、ペトロともう一人の弟子、主が特に愛しておられた弟子が墓へと走ってやって来ます。もう一人の弟子の方がペトロより先になり、早く墓へ着きました。そして、中を覗き込むと亜麻布が置いてあるのを見ましたが、中へは入りませんでした。続いて、ペトロが着き、中へ入って、亜麻布が置いてあり、顔覆いが離れたところにたたんであるのを見ます。そして、もう一人の弟子も入り、それらを見て、主が復活なさったことを信じたのであります。この弟子が主の復活を最初に信じたのであります。
彼らは、旧約聖書が、主イエスが死から復活することになっていると預言してあるのをまだ、理解していなかったからであると、ヨハネ福音書記者は記しています。そして、彼らは、彼らの方へと立ち去ったのであります。
 続いて、20:11-18の文となります。マグダラのマリアは、また、ペトロたちを追って引き返していたのでありましょう。彼女は、墓のそばで、泣いておりました。そして、墓の中へと体を傾けて覗き込むと、主イエスの遺体の置いてあった、その頭の方と、足の方に、二人の天使が、腰かけているのが見えました。彼らは、「御婦人よ、どうして泣いているのか」と聞きます。マリアは「彼らが主を取り去りました。そして、どこに、彼らが彼を置いたのか、私には、分かりません」と答えたのであります。そして、人の気配を感じたのか、振り返りますと、主イエスが立っておられました。しかし、主だとは彼女は分かりませんでした。主は、「御婦人よ、どうして泣いているのか、だれを捜しているのか」と尋ねられました。彼女は、園丁だと思って、言います。「旦那さん、あなたが運び去ったのなら、どこにあの方を置いたか、言ってください」と言います。すると、主は「マリアよ」と言います。マリアは、その声によって分かって「ラブーニ」と言います。それは「先生!」、と話したのでありました。すると、主は、「私に触れ続けるのはやめなさい。私は、まだ、父に向かって上っていないのだから」と言われます。マリアは、あの十字架にかかられた先生である過去の主イエスを握ろうとし、肉体的な生前のイエスに固執するのであります。
主は言われました。「あなたは、行って、こう私の兄弟たちに伝えなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところへ私は上る』と。」
主イエスは、神の独り子でありました。その父のもとから、来て、その父のもとへ帰らなければならないのです。彼は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。しかし、彼を信じる者には、だれでも神の子となる資格を与えられるのであります。復活された主は、父のもとへ昇天することが肝心なのであります。
マリアは弟子たちのところへやって来て、こう告げます。「私は、主を見ました」と。そして、彼が彼女に言われたそのことどもを、伝えたのであります。
この大震災の困難と悲しみにうちひしがれている人々と共に、主は、今も生きていたまいます。私たちの罪のために、十字架に付けられ、復活させられた主は、今後も、この地上の私たちの生の終わりの時まで、また、この世の終わりまで、私たちと共にいてくださいます。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。





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2011/04/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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